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水郷めぐみ教会の歩み of suigom


「 水郷めぐみ教会のあゆみ 」


 ここに記されていますのは、2007年6月から10月まで、水郷便りで連載しました「水郷めぐみ教会の歩み」をまとめたものです。

 内容は「神に拾われた牧師」の後半にあります水郷めぐみ教会スタートの軌跡をもう一度あらたに記したものです。





 今日の説教者は和子先生です。感謝します。


 説教がないと気持が楽になります。説教することはそれだけ大変なことです。今日は私にとって名実ともに安息日です。


 今から15年前にそのような日が続きました。教団本部に牧師辞任届を出しました。内心これで牧師を辞めた、説教の準備も教会に対しての心配もなくなり、気持ちが楽になったと思いました。


 そして、礼拝は他の教団の教会に出席し、会衆席の後ろの方で信徒として説教を聞き始めました。とても気楽に礼拝に参加しました。


 こんな礼拝の守り方もあるのかと思いつつ、その教会で礼拝を守っていました。家内と娘も一緒でした。


 しかし、信徒として礼拝を守っていると「平山、おまえはそこに座っていていいのか」と声がかかって来るのです。それはイエス様からでした。


 「でもイエス様、私は牧師を辞めました。教会もありません。ここで信徒として気楽に信仰を守ります」と応えました。


 しかし、私の心からイエス様の語りかけが消えないのです。観衆席に座るのが気楽でなく苦痛になってきたのです。


 もう一度祈りました。「イエス様、私は教団本部に辞任を出しました。今は派遣されるところも招かれるところもありません。説教することは出来ないのです。する教会がないのです」と応えました。


 すると、イエス様の言葉は「どこでも私の伝道は出来るのです。家でもいいのではないか」でした。


 そうだ、イエス様は私を信徒としてでなく、あくまでも牧師として招いておられる。ゼロからでもいいからもう一度イエス様の召しに立ってみようと思いました。


 そして自宅の台所、家族3人で次の週から礼拝を始めたのです。私が説教、家内が奏楽、娘が聞く人。これが水郷めぐみ教会の出発です。


 小さな小さな礼拝ですが、私は自分がもう一度牧師として説教者として立てることが出来たことに大きな喜びを感じました。


 もちろん教団との関係もありません。地域教会との繋がりもありません。ただイエス様を信じて始まった教会です。(これから水郷めぐみ教会の歩みを書きます。)






 自宅、台所での礼拝は、誰にも相談することなく助けを求めることもなく、ただ私とイエス様との関係で始められました。


 新しく教会を始めることをキリスト教会では開拓伝道と言います。開拓伝道を始める時は教団からの援助、どのくらいの援助者がいるか、実地調査、核になる信徒は何人ぐらいいるか等、周囲の環境をある程度準備します。


 水郷めぐみ教会は、これらが全くありませんでした。ですから「それは無謀だ、止めた方がいい」というような反対意見がありました。


 でも伝道に援助を得られることは素晴らしいことだが、それよりももっと大切なことはイエス様からの導きを信じることと確信していました。


 人間的な援助がなくても、イエス様が必要としてくださるのなら前進出来ると信じていました。祈りをもって主の助けを第一とする信仰に立っていました(これは会堂建築する時も同じでした)。


 人間に対する義理も恩義もありませんから何も恐れることはありません。とても爽やかな気持ちでスタート出来ました。


 朝、食事を済ませてテーブルの上を片づける。そこに講壇を置いて(講壇は段ボールに模造紙を張り、赤のマジックで十字架を書きました)、いよいよ礼拝の始まりです。

 3人(牧師夫妻、娘)の礼拝は人数からいうと寂しい礼拝でしたが、私の心は全能の神に向かい広々としていました。


 説教もそれまでのように人の顔色をうかがいながら足をがたがた震わせ心臓をドキドキさせての説教ではありませんでした。ただイエス様を意識しての説教です。自由に語れる喜びを感じました。


 説教が終わると娘が「お父さん今日の顔はすきっきりしているね」と話してくれました。息子はこの年の4月に埼玉の大学に入学し借りたアパートから日曜の夜になると毎晩「お父さん今日はどうだった」と電話をかけてきました。


 この教会の協力者、賛成者はただ家族四人だけでした。人を当てにするのでなく全能者イエス様を頼る教会それが水郷めぐみ教会です。


 それは私が牧師生活を初めて19年目のことでした。(2)






 家庭で教会を始めた時、心に一つの問題がありました。それは日曜学校のことでした。


 私たちが保育園を始めた時の信仰は、幼子にイエス様を伝えたいという祈りがありました。また卒園生も私たちを慕って日曜学校に来ていました。


 特に夏のキャンプには沢山の卒園生が参加し、ある時は大型バス二台で60名近くの小学生がキャンプに参加したこともありました。


 しかし、私の自宅に子ども達が来ることはありませんでした。


 どうしようかと考えていた時、その年の卒園生のお母さんが「娘が先生達の日曜学校に行くと言っているので是非日曜学校を始めて欲しい」と話に来ました。


 そのお母さんは「先生、保育園で出来ませんか」と言われたのです。「そうか、保育園は日曜日空いているから出来るな」と思い、卒園生に呼びかけ始めました。


 午前の礼拝は家庭で、午後の日曜学校は保育園でと、教会の活動は始まっていきました。子ども達は次々に保育園に集まるようになりました。とても楽しい日曜学校が始まったのです。高校生の娘もよく手伝ってくれました。


 園児達が保育園を卒園しても日曜学校に来てくれることはとても嬉しいことでした。


 牧師が保育園の園長をすることに色々な意見もありますが、卒園生が日曜学校に気楽に来られることは良いことであると思います。


 そうこうしている内、千葉からKさんご夫妻が私たちの家庭礼拝に来られました。この方の奥さんのお母さんと私は昔から親しくしていました。葬儀の時も私が司式をしました。


 礼拝が終わった後、ご主人が「先生、ここでは外部からの人は礼拝に来ませんよ。教会としては良くない。先生達が本気でこれから伝道するなら私がお手伝いしますけど、本気で伝道する気はありますか」と私の目をじっと見つめながら言われたのです。


 それは気力に満ちたものでした。私は一瞬「エッ」と思いましたが、迫力に負けまいとして、お腹に力を入れその人の目をじっと見つめ返しました。


 内心では、この人まだ洗礼を受けていないのに、、、と言う思いもありました。






 私はその人の目に並ならぬ決意を感じました。


 一体どんな手助けをしてくれるのだろうか。献金をしてくれるのかな、あるいは、、。そんな思いが私の頭をよこぎりつつ「はい、私は真剣です。」と応えました。


 すると「私が所有する土地が更地になっている。そこに会堂を建てて教会にするから先生は借りますか」と、思いもよらない申し出があったのです。


 それまで家庭で礼拝をしていましたが、やはり教会は個人的な家でするのでなく他に集会場を持った方がこれからの伝道に必要と考え、家内と二人で町内のあちらこちらを探し回りました。


 ここは貸してくれるだろうか、この場所はどうだろうかと、教会にふさわしい集会場を求めていました。


 そんなとき、この申し出に神の不思議な導きを感じ、一種の恐ろしさを受け止めました。神はこんな形で祈りにこたえてくださるのか。


 私は震えるような声で「はい、是非貸してください」と申し出ました。


 それから話は急ピッチで進み、あれよあれよという間に会堂が一ヶ月ほどで出来上がってしまったのです。


 Kさんは工事中、千葉の幕張(自宅)から軽自動車で毎日のように現場に通いました。私たち夫婦も保育園の仕事の合間を見ながらゴミ片づけ、大工さんのお茶出しと現場に行きました。


 場所は潮来町でも一番便のいいところでした。前には広い幹線道路が走り、すぐそばには潮来小学校があります。


 建物は奥行き四間半、間口三間の大きさです。


 玄関入ってあがり口の右手に流し台、左手にトイレそして引き戸を開くと三間半、三間の礼拝堂です。後は何もありません。


 でも私たちが求めていた集会堂が与えられた感謝はどんなに大きな会堂を与えられたよりも大きな喜びでした。その時はまだ教会会計も整っていませんでした。


 私たち夫婦で毎月家賃35000円を工面しました。そして机、椅子、エレクトーンと少しずつ変え揃えていったのです。


 祈って頂くために家内の母教会に連絡していたところ、そこの信者さん方が献金を出し合って送ってくださいました。大きな力となりました。






 1993年6月、それは私たちが新しい教会堂に入った日です。その月の第一聖日礼拝から新会堂で礼拝が始まりました。


 奇しくもこの日は、和子先生の誕生日でもあります。和子先生は私の誕生日に教会が生まれたととても喜びました。その会堂(建物)は今も現存しています。


 見ると分かりますが小さな小さな会堂です。おそらく日本で教会堂と名付けられた中では一番小さな会堂でしょう。大人20名入ると満員です。


 ここの玄関に教会の名前を書いた看板がつけられた時、私たちは大きな喜びに満たされました。


 よそからは誰もお祝いに来る人も祝電も何もない献堂式。どんな団体も人の力もあてにしていませんでしたから人間的なにぎやかさはどこにもありません。


 しかし、これは神様が与えてくださった教会堂であるとの信仰に立っていた私たちにとっては祝辞、祝電がなく、誰もお祝いに来てくれなくても涙が出るくらいの感激でした。


 実際、第一回目の礼拝をした時、私の目から涙が流れ落ちてきました。わずか家族3人で始めた教会にあっという間に会堂が与えられた。これはなんとすばらしい神様の御業か!


 何よりも嬉しかったことは、これで伝道の基地が出来たことでした。本格的な伝道が出来る喜びでした。


 私はこれまでの経験から新しく出来たこの教会のモットーを「キリストの教会は裁き批判するのでなく主イエスが私たちを赦し受け入れてくださったように赦しを経験できる教会」でした。


 まず始めたことは保育園の関係者にここで教会を始めるようになったことを知らせる案内を出しました。


 自分に与えられたビジョンがこの開拓教会で実行できる喜びも与えられました。それは和子先生も同じ思いでした。


 この会堂での最初に日曜学校に27名、礼拝は私たち家族以外に2名の方が集いました。それに午後、高校生が2名。


 このようにして、めぐみ教会は祝福の歩みを始めました。


 そして不思議なことにこのとき統一教会から子供を脱出して欲しいと2家の家庭から依頼が私のところに来ました。






 1993年、当時大きな社会問題になったのが統一教会でした。


 キリスト教を名乗り大胆な活動をしていました。特に合同結婚式、霊感商法で日本中を驚かせていたのです。有名な芸能人もこれに参加し、話題性もあり、連日マスコミが取り上げていました。


 若者が入会すると財産を全部ささげ、実家の資産をもささげるような活動で、洗脳という言葉もこのときから取り上げられました。


 両親の言葉よりも教祖に従うので、若者を持つ親は大きな心配を持っていました。そんな時、二組の両親が深刻な顔をして2〜3日の間隔で私のところに見えました。


 「私たちの息子が統一教会に入り、親の言うことをぜんぜん聞かなくなってしまった。自分のすべきものをやめて活動に専念しているので、何とか会から抜け出せるようにして欲しい」


 この時、脱出にキリスト教会の牧師が関わりマスコミでも大きく取り上げられていたので、牧師に頼めば何とかしてくれるだろうと期待していたようです。


 しかし、私は統一教会についての知識もなく、めぐみ教会を始めたばかりでほかのことをする余裕も無く断ろうと思いました。


 でもこれらの方々の深刻な態度を見、神の前に祈らされました。


 結果は求めて来る者を断らないで、出来ることをするようにということでした。


 早速「統一原理」を手に入れその他の書籍も求め、まず統一教会なるものを学び始めました。


 また両親達と共に毎週水戸まで通い、脱出を専門に手がけている牧師のもとで一生懸命に学びを続けました。


 帰ってくる時はいつも夜の12時を過ぎていましたが、若かったからかあまり疲れも感じないでこれらの青年を何とかサタンの手から救出しようと私も懸命になっていたのです。


 ここにその行いの詳細は書けませんが、結局、一人は成功し、もう一人はうまくいきませんでした。開拓伝道を始めたばかりの私にこのような依頼があったことは今でも不思議でなりません。


 今、同じ依頼があったとしたら自分には無理なことと思います。それだけ大変なことでした。






 開拓教会出発の時、統一教会脱出活動をしたことは大変なエネルギーが、そして細心の注意が求められました。


 新しい会堂での教会活動が始まった時に予想外の働きを依頼されましたが、まだ若かった私はどちらも懸命に働いていました。


 統一教会が一段落してからは、いよいよ水郷めぐみ教会に専念することが出来ました。


 伝道の手がかりは、まず保育園の卒園生でした。この会堂で10年間伝道しましたが、その間一番集まったのは日曜学校です。


 この数年前から全国的に日曜学校が減少気味になり、なかなか子供たちが教会に来なくなってきた時期でした。


 オウム真理教、サリン、統一教会とキリスト教会にとってマイナスイメージが、宗教は恐ろしいとの印象が増えつつあった時でした。


 そんな中でも水郷めぐみ教会は毎週日曜学校の生徒で溢れていました。一回では収容しきれなく午前、午後と二回の集会を開くようになりました。


 時間になると教会前の道路には次々に父兄から送られてくる子どもたちがやってきます。道路には車が並び、近くの人が何があるのかと不思議に見ていました。


 これは社会的に宗教に対して不安なときでしたが、私たちは保育園という働きを通して父兄との信頼関係が作られていたからであったと思っています。


 保育園を始める時、隣のバプテスト教会の小野一良牧師が私に勧めてくれた言葉がそのとおりになったと思っています。


 教団内でも日曜学校減少状態の中、どうして水郷めぐみ教会は集まるのと聞かれた時、保育園の影響ですと話すと教団幹部の先生に「なーんだ保育園があるからか」と一蹴されました。


 ホーリネス教団はまだまだ伝道の働きに対して認識が狭いなと感じたこともありました。(最近はだいぶ認識が広くなってきました)


 イベントもだいぶしました。何かにつけてしました。


 アイスクリーム大会、焼き鳥大会、ホットプレート大会、クリスマス。


 キャンプ(当時は教会単独でしていました)、特集(これには100名近くの子供が集まり二回に分けてしました。会堂が狭かったので)






 キリスト教会と言えばすぐに連想されるのが結婚式です。


 日本では結婚式をキリスト教で行う人が約60%もいるそうです。キリスト教信徒が人口の1%にもならない中で、これほどの人がキリスト教式で結婚式を行うことは驚きです。


 伝道のチャンスとなります。私も水郷めぐみ教会を始めたとき、いつかは結婚式の出来る教会堂をと祈っていましたが、親子3人で始まった開拓教会では望むことは出来ませんでした。


 しかしある時、私の同級生が「キリスト教で結婚式を挙げたい人がいるのだけれど平山の教会でしてもらえないだろうか」と話しがありました。


 あきらめていた結婚式がこの小さな会堂で出来るとは夢にも思っていませんでした。(10年間でこの一件だけ)


 当日はそれぞれの関係者が何人か集まって式が執り行われました。式後、披露宴を近くにある新婦の職場でするので神父様も是非夫婦で出席をして下さい、と招待を受けたので参加させて頂きました。


 そこはお酒を飲み、楽しむところでした。きれいに化粧した女性が何人もいました。入るなり「いらっしゃいませ」と明るく (店内は窓もなく暗いのですが) 声をかけてくれました。


 私は牧師になってこのような場所に入るのは初めでした。ドキドキしながら出されるものを食べたり飲んだりしました。


 ここに神父様が来た、それも仲間の結婚式をしてくれた教会の神父様ということで、とても親切に迎えてくれました。


 こんなに優しく迎えてくれるのならまた来てみようかなと思い、それを話してみると皆さん大いに喜んでくれ「是非また奥様とおいでください」と誘われましたが、何故かあれ以来そのお店には行くことはありませんでした。


 また不思議な導きで葬儀も一回ありました。亡くなった方は献体していたので髪の毛を骨壺に入れ式を執り行いました。


 葬儀は参列が自由ですので黒い服を着た人が前の道路にまで溢れ、近所の人や車で教会の前を行き交う人たちは怪訝な顔をして教会を見ながら通っていきました。






 私たちが開拓伝道を始めた頃、南米のペルーでは日系人フジモリ大統領が誕生していました。日本との関係は友好的でペルーから沢山の人が日本に来て働くようになりました。


 私たちの教会にも2人、3人とペルー人が礼拝に集うようになりました。


 彼らは麻生町から自転車で来たのです。日本語は分かりません。片言の挨拶が出来るくらいでした。私の日本語の説教も分からなかったようです。


 彼らはカソリックでした。でも何故か日曜日になると良く礼拝に来るようになりました。


 開拓教会にとって外国の人でも礼拝に来てくれることはとても嬉しいことでした。それだけでも礼拝がにぎやかになったのです。


 私たちも彼らに喜んでもらおうとして昼食を作って一緒に食べたり、サッカーが好きでしたから鹿嶋サッカースタジアムに案内したりしました。


 でも長続きしません。3〜4ヶ月くらいで入れ替わるようになり、いつの間にかペルー人は誰も来なくなり、またもとの静かな礼拝になりました。


 そんなとき牛久にある入国管理局から電話があり「今、収監されているペルー人が平山さんに会いたいといっているが来てもらえるか」と話されました。


 私は何事かと驚き、急いで行ってみると教会に来ていた人が収監されていたのです。「どうしました」と聞くと「不法滞在で逮捕され本国に強制送還される」と言うのです。


 そのペルー人がわたしに頼みがあるというのです。「あと3日で本国に送られる。その前に日本で働いて貯めたお金が郵便局に積んである。これがそのキャシュカードだ。あなたを信用するからお金をおろしてきて欲しい」というのです。


 えっ、そんな大事なことを頼まれていいのと思いましたが、暗唱番号を聞いて翌日郵便局に行き、お金を下ろして再び管理局に行き彼に渡しました。


 彼はとっても喜んで「オブリガード、オブリガード」と涙を流してお礼を言うのです。ペルーの住所を教えてもらいましたが言葉が書けないのでそのままです。






 不思議なもので、今度は女性のペルー人が礼拝に来るようになったのです。


 彼女は潮来町の飲食店で夜の働きをしていました。日本語は会話が不自由なく出来て勤勉家でした。


 ふるさとはペルーのマチュペュトで、インカ帝国の子孫です。夜、仕事をしているので午前中は家で休み、午後になると教会に来るのです。


 ニコニコしながら「コンニチハ、ワタシキテモイイデスカ」と、毎週日曜の午後見えるようになりました。


 彼女は私たちに心を開いてくれ色々と相談事を話し、とても親しくなりました。この人もカトリックでしたので祈る時、床に両膝をつけ手を組み十字を切ってお祈りするのです。


 一度だけ聖餐を受けましたが、やはり床に膝をつけ手を組んで口にパンと葡萄酒を入れてもらうようにしました。その姿にとても敬虔な印象を受けました。


 ある時嬉しそうにして日本の男性を教会に連れて来たのです。そして「わたしの婚約者です」と紹介してくれました。


 やがて東京に移り結婚、ご主人の仕事を手伝うようになりました。それだけでなく東京の夜学に行き勉強を始めたのです。


 新会堂の話が出た時には献金を送ってくださり、また建築中の会堂を見に来てとても喜んでくれました。


 韓国の婦人が2歳くらいの子供を連れて友達と夕拝に3回来たこともありました。


 3回目に来た時、夕拝が終わって和子先生が日の出のアパートまで送っていった帰り、お金が沢山入っている袋を渡し「これは今まで貯めておいたわたしと息子の十分の一献金です。先生の教会に捧げます」と言われたのです。


 その後、引っ越してしまいました。ちょうど会堂建築のために祈り始めた時でした。神様がこんなにして祈りに応えてくださるとは想像もしていませんでした。


 ビジョンを持って祈る時に、神様は祈りに応えてくださるお方です。ですから実際に口に出して神に求め祈ることは我々信仰者にとってとても大事なこと又恵みを経験することであるのです。


 最近、祈る声があまり聞こえてこないのは寂しいことです。






 韓国の婦人の方の献金は開拓が始まって1年半後の出来事でした。


 開拓教会は全くのゼロから、団体も誰からも援助もなく、牧師と神様との祈りの中で進められたのです。


 ですから誤解も起こりました。ある意味での反対の動きもありました。わたし自身、内心で葛藤があったのも事実でした。


 そんなとき神様の働きをプレゼントして頂き、「平山牧師あなたの働きはわたしが支えているよ」と言う声を聞いた思いでした。


 それ以来、この開拓伝道の働きは神様が承認してくださっておられることを強く確信しました。その時与えられたのが教会堂を建てるビジョンでした。


 一年半前に建物が建てられ、それなりの体制で開拓伝道が出発したばかりの時でしたが、わたしの信仰には教会が所有する会堂を与えてくださいという祈りが始まりました。


 そのためにも祈祷会は大事と思い、水曜日に祈祷会を始めました。信徒は私たち家族から始まりましたから祈祷会に集うメンバーは高校生の娘と私たちでした。


 高校生の娘は自分でしたいことが沢山あったと思いますが、祈祷会にはよく出席し3人心を合わせて「神様、どうぞ教会所有の会堂を与えてください。せめて教会キャンプが出来るように泊まれる部屋とお風呂のある教会堂を・・」と祈りました。


 この祈りは日曜学校の子ども達にも伝わり、小学生、中学生も祈るようになりました。


 教会員が数名の私たちにとっては夢のような話でしたが、祈りは誰にも迷惑もかけませんし、神様との会話ですからとても楽しかったです。


 その後、新会堂が出来た祈祷会での時、娘が「前の教会を離れて水郷めぐみを始めた時、わたしの心にも色々な思いがあったけど神様は私たちの祈りをこのような形で答えてくださりとても嬉しいです」と証しました。


 その証を聞いたわたしは思わず目頭が熱くなる思いでした。


 あの当時、娘にもつらい思いをかけたが信仰を持って乗り切り、今は感謝のあかしを言えるようになった。これも祈祷会で祈り続けた恵みであると受け止められたのでした。






 めぐみ教会の開拓当初は伝道対象を子ども達に絞って始めましたが、このように神様は思いがけずに大人の人たちをも教会に送ってくださいました。


 そんな中で大きな感謝は、近くから親子連れのキリスト者が、また都会から引っ越しされた家族が私たちの教会で共に信仰生活を守ると申し出られたことでした。


 それだけでなく何人かの人たちも私たちめぐみ教会に加わってくださり、大きな慰めと力になりました。


 そんな中、夫婦で洗礼を受け信仰を持たれた方も与えられました。


 子ども達が多くなった日曜学校に奉仕をしてくれる方、お昼ご飯を作ってきてくださる方も与えられ教会は賑やかになってきました。


 これらのことは私たちとして全く予期しなかったことであり大きな感謝となりました。どんなに教会の力となったか分かりません。


 人の力を頼りとしないで神様を頼りにし真実に歩む時、神様は豊かに応えてくださるお方です。(これは会堂建設にも体験させて頂きました。)


 ですから人の顔色をうかがう教会でなく、神様のお心を第一に出来る教会形成を祈っています。


 以前は多くを捧げた人の考えが大事ではないか、長く信仰生活をおくっている人の考えが大事でないかとの空気が教会を支配していた思いでした。


 それは人と人との交わりを密接にする仲良し教会になりますが、自分たちの考えが神様の考えと同じように受け止められる雰囲気が支配し、それに合わない牧師は教団に転任を命ぜられるようになる可能性がありました。


 信仰の恵みは神様の前に歩む世界です。そして主イエスは全ての人を受け入れられるお方です。


 水郷めぐみ教会のモットーは、お互いを批判しない、ひとり一人を大事にし、教会内に天皇を作らないことです。


 礼拝に来ると人の顔を見て緊張してしまう。礼拝を終えて教会を出た時ホッとすると言うことを聞いたことがありました。


 教会の主は十字架にて私たちを愛し命を提供してくださった主イエス様です。私たちはただその愛に生かされているだけです。






 三間×三間半の会堂を与えられた時は大きな感謝でした。


 しばらく教会活動をしているうちに、もう少し広い礼拝堂が欲しいなと言う気持ちも起きてきました。


 今の広さにテーブルを置き、椅子を置いて礼拝するには定員が18名でした。普通の礼拝は18名を超すことはなく10名前後でしたから不自由はないのですが、特集をする時、「もう少し礼拝する場所が広かったらな」と言う気持ちが起きて来ました。


 そんなことを考えている時、教会の前を通る親子連れがいました。


 男の子がお母さんに向かって、「お母さん、これ教会?結婚式するのかな」と言うと、「ばか、こんな小さな所ではしないの」とお母さんの返事。


 わたしは教会内でこの会話を聞いて、心に燃えるものを感じました。「よし、坊や見ていなさい。今に結婚式をして欲しいと思うような教会を建てるからね」と、自分に言い聞かせました。


 しかし思いは高ぶっても土地はない、会員も少ない、教会のお金はない、教会内に会堂を建てようとする気運もまだ高くなっていない。ナイ、ナイばかりでした。


 そこでまず提案されたのが、今の建物を教会所有とするようにしたいということでした。その思いの中に教会を宗教法人化にしたい考えがありました。


 このままでは資産が個人名義のため資産の所有者が変わった時どのような変化があるか分からない不安もあったからです。


 宗教法人化になれば個人が変わっても教会は変わらないで存在し続けます。


 茨城県に聞いてみると、法人化になるためにはある程度の資産が必要でした。まずは不動産としての土地と建物です。


 教会内部で話し合い討議を重ねましたが実現するに至りませんでした。物事は自分たちの思う通りに行きません。それが現実です。また今思うとこれが主の御心であったと思います。


 そこで再び教会堂建築の話が具体的になってきました。そのためにはまず土地を捜すことです。


 バブルがはじけて不景気になり土地の値段は下がって来ましたが、私たちが手に出来る土地はなかなか見あたりませんでした。。






 しかし、土地があっても上に建てる会堂にかかる費用も必要です。


 田舎では土地代よりも会堂建築の方にお金がかかる場合があります。それは会堂の大きさにもよりますが。


 土地を取得するための費用と会堂を建築するための資金はどうするのか、これが当時わたしの脳裏を毎日占めていたことでした。


 ある時、K姉がわたしにこんな話をしてくれました。


 「 わたしの母は神栖に信仰の証を立てた。わたしも神様からいただいた祝福を感謝する意味でも潮来の地に信仰の証を残していきたい。主人も賛成してくれている」と。


 そして土地は自分が捧げてくださると申し出してくださったのです。これは大きな感謝でした。神様への証です。教会も力強い言葉をいただきました。


 それ以後も同級生に聞いてみたり地元の不動産に訪ねたりして土地探しを続けました。


 教団の新年聖会に行っていた時のことです。潮来から電話がありましたと連絡を受け、何事かと和子先生にかけ直しました。


 「 牧師の同級生が土地の話を持ってきたので、聖会が終わって帰ってきたら見てください 」とのことでした。


 潮来に戻り、彼に会うと早速現場を見せてくれてこう言うのでした。「 ここは広いので平山君と半分にしないか。わたしはその半分を宅地に造成し販売したいのだが 」と。


 自分一人で決められることでないので教会員に話し、みんなで見に来ました。


 そこは荒れ地状態になっていて埋め立てなければどうしようもない土地でした。それに千坪を超えるとてつもなく広い土地でした。


 どうするか判断つかない状態の時、K姉が「わたしが全部購入し、埋め立てます。そこに教会堂を建ててください」と申し出られました。


 このようにして思いもよらない、考えもつかない土地が備えられたのでした。


 業者に頼み、土地には次々とダンプカーによって土が運ばれ埋め立てられていきました。1メーター以上埋め立てましたので、それだけでも土地代と同じくらい費用がかかりました。


 こうして神様はとても不思議なことを私たちにしてくださいました。






 教会堂を建てるための土地は、神様の驚くようなめぐみによって与えられました。これは開拓教会にとって大きな感謝でした。


 土地を取得することは教会にとって並大抵なことでありません。それぞれ教会では大きな苦労をしています。


 私たちもそれなりの祈りと努力をしました。どこの教団にも属さない独立独歩の信仰で来ましたから、他からの応援もなく期待も出来ません。


 期待するとすれば神様のお力だけです。その期待に神様は見事に応えて下さいました。


 次は会堂です。当時の礼拝者は10名を超すことはあまりありませんでした。7〜8名の礼拝者でした。そこには中学生、高校生も含まれていました。


 そのような規模の教会でしたから、新しく建てようとする教会は大きさをどのくらいにしたらいいかが祈りの課題でした。


 「先生、現状にあった会堂を考えましょう」。「先生、せっかく建てるのだから誰が見ても教会として見栄えのする大きさにしましょう」。


 少ない教会員でしたが意見は多くありました。「最終的には牧師に決めて頂きましょう」と話しが私に向いて来ました。


 やはり教会の最終責任は牧師にあります。私の心にはあの坊やが言った言葉がなかなか消えません。


 「結婚式をして下さいと言ってもらえる教会を建てるからな!」


 そうだ出来るだけ大きな教会堂にしよう。私の気持ちは決まりました。


 参考にしようと色々な教会を視察に出かけました。


 日本では会堂が伝道すると言われています。会堂を見て、行ってみたいという気持ちを起こさせられるような建物。そんなビジョンが与えられました。


 それにはある程度の大きさが求められます。同時にそれだけの予算も大きくなります。


 何回か検討を重ね、会堂は屋根が高く開放感のある教会、中に入ってゆったりとした気持ちになれる会堂、収容人数は最大限100名の会堂(100台駐車出来る広さがあるのだから)が、だいたいの方針として決められて行きました。


 夢が広がって行きます。


 しかし、問題も発生しました。当初お願いした業者との関係がうまくいかなかったのです。


 そのために別な業者にお願いするようになりました。






 建物を建てる時、業者選びはとても重要です。


 こちらの意向をどれだけ汲んでくれるか、また業者の誠実さ、技術力など業者選びは迷います。


 業者選びが振り出しに戻り、あれこれと考えている時、教会員が勤務先の職員室で「私の行っている教会で会堂建築を考えている。」と話すと、隣に机を置いていた先生が聞き耳を立て「えっ、教会堂を建てるのですか。業者がまだ決まっていなければ、わたしを牧師さんに紹介してくれない」と話しかけてきました。


 学校の先生が建築に興味を持つとは何だろうなと不思議に思いながら会ってみると、「自分の希望は教員よりも建築にある。すでに自分の家を含め何件かの家を建てた経験がある。もし自分が教会堂を建てられるのなら是非させて欲しい。教会堂に現在の建築技術を集積してみたい」と篤く話すのです。


 私たちとしては初対面でもあり驚きながら話を聞きました。そしてこの人の建てた家を何軒か見に行きました。どれも木を沢山使った暖かみのある建築物でした。


 それだけでなく、それまで聞いたことのない「外断熱」と言う言葉がいつでもでるのです。


 この先生と話していると、建物の構造が具体的にイメージされ、私たちはこの中学校の先生にお願いするようになりました。


 ただこの構造にすると普通よりも割高になります。予算も見えてくるようになりました。それは完成に必要となる色々な面を含めて4、000万前後の予算でした。


 しかし、そんな多額のお金が開拓10年もしない教会にあるわけがありません。


 会堂に牧師館も併設しようかとの話もでましたが、そうなると予算はさらに倍近くになってしまいます。


 また限られた予算では会堂が小さくなってしまいます。幸い牧師は住む家があるので会堂だけに専念した予算となりました。


 さあ、4000万のお金をどうしようか。数名の教会員で予約献金をしましたが十分の一にもならない。ここでも牧師が何とかするのではと言う空気が流れて来たような気がしました。


 早速自分の資産を集計してみました。このころは2人の子供も学校を終えて独立していましたから、子供にかかる必要は無くなっていました。






 自分の手元にお金はありませんでしたが、よく調べてみると保育園の積立がありました。これは無認可保育園をしていた時、公的な補助が受けられませんので自分たちの将来のために積み立てていた資金でした。


 いま自分が工面できるのはこれしかない。使おうか、でも将来のために積み立てておいたものだからそのままにして置き、保育園の為に取っておくべきか大分悩みました。


 しかし保育園が今日まで支えられているのは神様の恵であります。その恵をこの時にお返ししなければと強く迫られました。


 それで無一文になっても将来のことはまた神様が支えてくれると信仰の迫りが起きて来ました。そして資金を全部捧げる決断が出来ました。


 これに和子先生の預金を合わせると必要資金の半分以上がまかなえる。それに今までの積立や献金を加えるとあと一千万の不足までになりました。


 不足分は融資でまかなおうとの考えがまとまってきました。資金計画が決まりました。これで建築が始まれます。


 私たちはワクワクしながら建築会社と契約を結ぶことも出来ました。夢のような話しです。


 会堂の姿が段々と見えてきました。


 次の課題は宗教法人化です。建物が完成したら所有者を決めなければなりません。法人が無ければ個人名義で登記しなければなりません。


 宗教法人法はオウム真理教事件以来改正され、取得が大変難しくなりました。一度や二度の申請で県は話し相手にもなってくれません。


 国の方針はなるべく宗教法人を増やさない考えになってしまいました。最低条件として土地と建物を自前のものとしていなければなりません。


 借地、借家では相手にしてくれません。土地がどんなに広くても借地では法人化になりません。


 地主(加藤姉)さんに話すと200坪を教会に捧げて頂くことが出来ました。これで最低限の条件は揃いました。


 さあ、これを持って県庁に向かいます。茨城県では一番立派な県庁舎が出来上がったばかりです。


 ピッカぴっかの県庁に緊張しながら入りました。対応者は「何しに来たの」と言う雰囲気を受けました。気の弱い私はすでに萎縮してしまいました。






 しかし、空手で帰るわけにはいきません。両手に力を入れ、足を踏ん張り、宗教法人を申請するに至ったこれまでの経過を説明しました。


 県の担当者は「うん、うん」とうなずきながら聞いていましたが、一言「準備が足りません」と言うだけです。


 何が足らないのか、教えてくれるのかなと思っていても何の返答もない。「何が足らないのですか、教えてくれませんか」とこちらが問うて初めて答えてくれる関係でした。


 「ここですよ」と教えてくれたところを直して持っていくと、今度は「ここも出来ていません」と。こんなやりとりが何回も行われ、2時間近くかけて潮来から水戸まで3年ぐらい通いました。


 「どうして一回でまとめて教えてくれないの」、これが本音でした。


 しかし、力となったのはいつも和子先生が一緒に行ってくれたことと、数年前に社会福祉法人格を取得したときの経験でした。


 茨城県に宗教法人の話しを持って行ってから既に5年の年数がかかりました。それほど宗教法人は取得が困難になっています。


 何回も何回も県庁に通って何とか献堂式前には目途がつきました。数年の間で社会福祉法人、宗教法人と二つの法人格を取得できたことは本当に神様の恵です。


 農家の長男として生まれ、高校だけで大学にも行っていない無学な私にこんな仕事が出来たことに神様の哀れみを強く感じています。


 もちろん皆さんの祈りの支えと和子先生の力添えがあったからこそと思っていますが、信仰の世界は私たちに素晴らしい可能性を与えてくれます。


 認可の書類が整い最終的に県の担当者2人が教会に視察に来ました。一人は「私はキリスト教の幼稚園に行っていました」と自分から話してくれるのです。


 小さいときに受けた教えは大人になっても心に残っているのです。とっても嬉しくなりました。


 視察が終えてから一ヶ月後に念願の宗教法人認可の書類が来ました。県知事印のついたA4の薄い紙一枚です。


 これを手にするのにどれだけ苦労したか思いがこみ上げ、嬉し涙と共に神様に感謝しました。


 これで水郷めぐみ教会は法的にも市民権を持つことが出来ました。


・・・つづく  

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