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6、水郷めぐみ教会 誕生へ




 そこの先生とは顔なじみでしたので、私たち三人が突然礼拝に出ているのを見て驚かれました。でも先生は何も言わず、何も聞かず、私たちを温かく迎えてくださいました。


 私自身、長い悩みから解放された気持になり、ホッとして礼拝に出席させてもらいました。正直「ああ、これで説教を準備する苦労もなく、恐れながら講壇に立つこともない」との安心感がありました。


 しかし、何回か礼拝に出ていたとき、私の心に別な思いがわき上がってきました。まるで頭の上から話されるように語りかけがありました。「平山よ。お前はここの席に座って説教を聞いていていいのか」


 家に帰ってもこの語りかけが離れません。祈りました。「でも神様、私は伝道者として失敗したのです。教会員からは伝道者として受け入れられてもらえなかったんです。わたしに何が出来るのですか」


 私自身、もう二度とこんなつらい働きはごめん、とどこかで考えていました。そんな思いでいたとき、「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。私があなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」(使徒18:9)


 ハッキリした御言葉が与えられました。この言葉が私の心から離れないので、これは主がわたしに対する再献身を求めているのだと確信しました。


 そして、家族にそのことを話し、「これから、家の中で礼拝をする」と、宣言しました。家内も高校一年の娘も、それを聞いて嬉しそうに笑顔でこっくりとうなずいてくれたのです。


 次の礼拝から、ダンボールに十字架を書いて講壇代わりにし、朝食を終えた台所で礼拝を始めました。家内が奏楽、聴衆は娘ひとり。


 でも、私の気持ちはそれまでになく華やかになりました。何よりも、説教できる喜びを取り戻したのです。やはり私は主に召された伝道者との認識を新しくしました。







そんな私の噂を聞いて、私のところに来た方がいました。


 その人は「先生、こんなところで教会を始めたと言うが、ここでは誰も来ませんよ」「もし先生が本気で伝道するなら私が力を貸します」と、言ってくださったのです。


 そして、自分の持っていた土地に一ヶ月で建物を建て、そこを教会として貸してくださったのです。


 私たちは本当に感謝しました。一室と、トイレがついただけの小さな建物でした。しかし何よりも、ここで伝道が出来る喜びで胸はいっぱいでした。ここに移り一生懸命伝道しました。


・・・・・


 保育園の卒園生が日曜学校に集まり始めました。その数、毎週30名前後の人数になりました。


 部屋は座るところが無くなるほどでした。お母さん達が車でよく送ってきてくれるようになりました。日曜の朝になると、教会前の道路は、送り迎えの車でいっぱいになりました。


 そこは潮来小学校の近くで、特集したときは、子供達が入れきれないほどの人数になり、二回に分けて集会をするようになりました。私たちは伝道者として立つことの喜びを再び得ることができたのです。


 長男はこの年、大学入学で上京しました。彼は日曜日の夜になると、必ず「今日の教会はどうだった」と心配して電話をくれるのでした。そして最後に電話を通して二人で祈り合い、感謝を捧げました。


 保育園で子供たちと遊ぶことも、誰にも気兼ねなく、楽しく、過ごすことができようになったのです。







伝道の第一の対象は、卒園生をはじめとした、子供たちに向かってなされました。大人の礼拝は、卒園した中学生や高校生が主でした。


 娘もよく手伝ってくれました。「お父さん、最近生き生きしているね」。よく見ています。本当に伝道が楽しくなりました。


 子供を第一にしているのを見ていた父母の皆さんは、安心して子供を教会に送って下さるのです。「園長先生に任せるなら安心です」うれしい言葉をかけて下さいます。


 新しく始まった教会では「子育てスクーリング」も始めました。今まで養った経験と、学んできたことを、少しでも子育ての中にある、親御さんに参考になればと思い、年に六回の割合で今も行っています。


 忙しい毎日ですが大変だと思いませんでした。魂に触れらることの喜びが大きくありました。







そんな両親を見ていた長男は、大学卒業と同時に、献身し東京聖書学院に入学しました。牧師である両親の大変さを、身近に見ていた息子は、教会につまずいて当然と思っていました。


 しかし、大学生になっても信仰から離れず、それだけでなく、神様にお言葉をかけて頂き、牧師になったことは親として感謝でした。


 娘は「お父さんもお母さんもこんなに一生懸命に働いているのにどうしてなのか?」と話していましたが信仰を守り、新しくなった教会で、毎週の祈祷会に休まず参加し祈り続けたのです。


 私たちの姿を見て子供たちがこのように信仰の生活を送ってくれていることは何よりの喜びです。


・・・・・


 それまでの保育園は、個人経営いわゆる認可外でしていました。


 しかし、潮来町は私たちの働きを見て「認可保育園の申請をしてみないか」と、勧めてくれたのです。少子化社会に進む中で、認可保育園になることは大きな力です。


 県に申請し一年で認可され、保育園は新しく社会福祉法人立になったのです。経営も安泰し大きな感謝となりました。






 新しい教会が三年ぐらい過ぎた頃から、自分たちの会堂がほしいとの思いが私たちの中から生まれてきました。


 一部屋だけの会堂では、何かと不便を感じてきたのです。


 教会で宿泊学校をするにも女子は会堂内、男子は外にテントを張って寝る。風呂もない。カウンセリングをしているとき、側で子供たちは駆け回ったり遊んだりしていて落ち着くこともできない。


 そんなある時、私が教会にいたら、前の道を歩いていた親子がいました。


 子供が建物の十字架を見て「あ、お母さん、こんなところに教会があるよ。結婚式するのかな」と母親に話していました。


 それを聞いた母親は「馬鹿ね、こんな小さな教会ではそんなことしないのよ」話しながら歩いていくのです。


 私はその話を聞いて腹が立ち、思わず窓を開けて外を見ました。すでに親子は何事もなかったかのように教会から離れて進んで行ってしまいました。


 その後ろ姿を見ながら「よし、向こうから、教会で結婚式をさせて下さい」と、言われるような教会堂を建てようとイエス様に誓いました。







ある日曜日、夜の集会に韓国のお母さんと、二歳くらいになる子供が来ました。滅多に来ることのない集会に、新しい親子が来ましたので、私は張り切って説教を始めました。


 しかし子供は、お母さんと座っていられなく、狭い部屋を駆け回るのです。お母さんはその子を後ろから追いかけ回り、共に走り出すのです。


 「ああ、これでは集会にならないな」と思いながらも一生懸命、いよいよ声を大きくし説教しました。集会が終わった後、お話をしようと近づいたのですが、日本語がよくわからず、少しの挨拶しかできないで帰られました。


 もうだめかなと思っていると、次の日曜日、夜の集会に子供を連れてきました。このときは家内が子供を引き受けたので、お母さんは椅子に座り説教中こちらを向いていました。


 そして帰るときになり「タクシーを呼んでくれませんか」と話されたので、家内が「近くでしたら私が送っていきます」と、住まいのアパートまで送っていきました。時間にして自動車で五分くらいのところでした。


 車を下りる前にこの方は「ここで待っていて下さい」と言われ、しばらくして、アパートから出てきました。手には何か荷物を持っているのです。


 「これは私と息子の献金です。毎月収入の十分の一をとっておきました。私たちには、今、教会がないのでこれを先生の教会に献金します」と、渡してくれたのです。手にすると、ずっしりした重さが伝わってきました。


 胸の高まりを感じつつ、急いで家に帰り数えてみました。全部で数十万ありました。これは何だろう。何か思いがあってこのようなことをされたのか。あるいは、お母さんは間違ってへそくりを渡してくれたのでは、等と考えてしまいました。今度教会に来たら聞いてみよう。


 しかし次の週からこの親子は教会に来ることはありませんでした。アパートを訪問したら、大家さんが「引っ越していいませんよ」と、言うのです。それ以来、今日まで連絡がついていないのです。






 これは神様が私たちに、教会堂建築のために呼び水として働いて下さったのだと信じるようになりました。教会に話すと中高生たちは喜んでいました。


 しかし教会員は少なく、月定献金者は数人です。土地もありません。あるのは信仰だけです。でも進みました。土地探しも始めました。


 東京の新年聖会に出ていたときです。家内から電話が入り「土地の話を持ってきた人がいるけど、どうしますか」と言うので「とりあえず押さえて置きなさい。帰ってから見せてもらうから」と話し、潮来に戻ってきてから見に行きました。


 話を持ってきた人は私の同級生でした。土地は田んぼに挟まれた、不便なところでした。耕作されておらず、雑草が背丈ほどに覆い茂っているのです。飲み水は井戸を掘らなければならない、何とも言えないところでした。広さは千坪もあり、どうしようかなと迷ってしまいました。


 教会の人とも見ましたが、皆さんよい返事はありませんでした。ところが一人の婦人が「先生、ここに教会を建てましょう。これは主の御心です」。さらに「この土地全部を買います。土地は私が用意します。あとはみんなで素晴らしい会堂を建てましょう」と、話してくれるのです。


 早速皆さんにはかりました。


 「先生、どの位の規模を考えているのですか」「百人ははいれる会堂です」「先生、今の私たちの教会は、多く集っても二十人ですよ。普段は十人前後でしょう。あまり大き過ぎるのでは、それに教会始まって十年にもならないのに」


 皆さんの話は間違っていません。しかし、かの婦人の信仰は力強く働きました。私も一生一大の、捧げものをするのはこのときを置いて無いと示されました。家内も預金全部を捧げると決心しました。


 でもそれだけで資金は十分でありません。それに私たちの教会は、単立です。どこにもアッピールする場がありませんでした。


 このことに関して、人の懐をあてにするのでなく神様の財産を求めよう、と考えるようになったのです。主が必要とお認めなさるなら、必ずこの計画は実現すると信じました。







建てるに当たって、主にささげる会堂は、最高のもの、出来るだけの力を注ぐこと、と決心しました。


 土地が決まりました。ダンプカーで土がどんどん運ばれてきます。千坪の田んぼを宅地にするには、相当な土を入れなければなりません。


 工務店を探し始めました。最近新しく建てた会堂を見に歩きました。それらの教会の先生から貴重なアドバイスを受けました。


 工務店も最高の方が与えられました。「牧師さん、今は昔と違って手抜き工事をする大工さんはいませんが、研究しない大工さんがほとんどですよ。研究を抜いています。新しい知識を抜いています。」とっても研究熱心な方でした。外断熱、健康に易しい建物、そして省エネルギーが出来る建物、これらがモットーでした。


 丁度そのころ長男は、聖書学院を卒業し、教団指定の開拓教会に任命を受けていました。その教会も会堂建築に進んでいました。彼の教会は教団あげての組織的なバックがありました。しかし私は父親です。まだまだ息子には負けないぞと、決心し頑張りました。


 会堂建築の話を聞いたある方は、多くの献金を捧げてくれました。郵便振り込みで送られてきた金額を見て、マルが二つ多いのではと、思わず数えてしまいました。


 また、地元で事業をされている方が現金を持って教会に来てくださいました。「少しですが、教会のお役に立ててください」と、祝儀袋に包みきれないお金を私に手渡してくれるのです。


 これらを通して私は学びました。今はお金がないのでなく、お金はあるが信仰がないのだと。







会堂建築は順調に進みました。二月の小雪降る、寒い日に起工式をし、暑い夏の八月末には完成を見ることが出来ました。


 骨組みが段段と立ち上がり、外壁、内装と工事は進みました。壁は二重構造の外断熱、窓は全て二重ガラス。冷暖房効果と防音効果は抜群です。内装には、全て無垢の木を使いました。化学製品は、極力使用しません。


 礼拝堂は約七メートルの吹き抜け、そこにはスペイン製のきれいなシャンデリアが取り付けられました。柱は曲線を描く集成材の柱。正面には、檜の木で作った大きな十字架。ライトは、ハロゲンランプのソフトな明かり。


 会堂内は森林浴の効果大です。講壇は、見知らぬ韓国の教会から素晴らしい講壇が送られてきました。


 工務店の社長は「この建物を自分の代表作品としたい」と言ってくださり、多大な犠牲を払ってくださいました。そして「他の人が見に来たら見学させてください」との条件で、値段も原価同様でしてくださいました。


 このことは、お金のなかった私たちの教会にとって大きな助けとなりました。


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 完成した会堂の中に立ったとき、私は夢見る思いでした。日本で私がそれまでに見たこともない様な素晴らしい会堂となりました。


 教会に材木を納入した材木屋さんは「自分の関わった建物がこんなに素晴らしいチャペルになった。ここで自分の結婚式をしたい。牧師さん是非させて下さい」と、申し込まれ、建物の引き渡しが終わってすぐに結婚式をしました。会堂建築に関わった人たちが、ほとんど出席しました。


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 上下水道のことも、将来のことを考えると、くみ取りや井戸水では困るなと思い、役場に行き、「ここに教会を建てるので是非町の方で設置して欲しい」と、頼みに行きました。


 役所の返事は「財政難の今日、教会ができるからと言ったって、お金のかかる事業は出来ません」でした。


 考えてみれば教会ができたからと言って多額のお金がかかる上下水道設置の仕事が出来るわけはありません。仕方ないので井戸を掘る場所、浄化槽の予算等を考えていました。


 ところがある日、町の責任者が現場を見に来たのです。それから数日後、私はその方に呼ばれ「もう少し具体的に必要性を話して欲しい」と、話されたのです。


 それから話が進み、最初の年、水道。翌年、下水道が教会にまで設置されたのです。奇跡がここにも起きました。







さて、会堂が完成したら献堂式です。


 最初、私は献堂式をするか、しないかと迷っていました。家族三人で始め、まだ十年しか経っていない。教団も組織もない。献堂式をしてもお祝いに集まってくださる方はいるのだろうか。


 そんな思いでいましたら「先生せっかくですから献堂式をしましょうよ」と励まされました。それに息子も献堂式をしたのだから、親がしないというのも変だなと思い、することにしました。準備をしながら、献堂式の日、集まってくださる方は、どのくらいかなと心配していました。


・・・・・


 いよいよ献堂式の日。朝からそわそわして落ち着きません。皆さん、場所がわかっているかな。五十人も来なかったらどうしよう。恥ずかしくなってしまう。等と考えながら、落ち着きなく、外ばかり見ていました。


 でも広い駐車場に次々と車が入ってきたのです。私の予想を遙かに超え、教会関係者だけでも百人を超える方々がお祝いに集ってくださいました。


 その他の関係者を入れると百人を大きく超えました。同級生の市長もお祝いに駆けつけてくれて祝辞を述べてくれたのです。


 献堂式が始まりました。講壇に立ちました。礼拝堂いっぱいの会衆者が目に入ったとたん、胸が熱くなり、感激の涙が目からこぼれ落ちそうになりました。


 十年前、大きな痛手を持ちながら教会を去ったことが昨日のように思い出されました。あの時は、教団本部に呼ばれ、懲罰を受け、みんなから伝道に失敗した牧師とレッテルを貼られ、とても悲く、つらい思いをしました。


 そんなことが胸中駆けめぐったのです。しかし、涙をぐっと堪え「水郷めぐみ教会の献堂式をはじめます」と宣言しました。


 何と大きな喜び、感謝でしょうか。主は生きておられます。下手な賛美歌しかできない私ですが、このときは大きな声で、会衆の皆さんと主を賛美しました。


 この年に、息子の教会も新会堂を建て、献堂式をしたのです。同じ年に親子そろってそれぞれの教会で献堂式をすることが出来るとは、何と神様に恵まれた親子なんだろうか。本当に心から主を賛美しました。


 十年間、親子三人で祈祷会を続けてきた娘は「十年前はとっても苦しかったけれど、あの苦しみは今日のこの喜びのためにあったんだね」と、話してくれました。


 あの時、娘も痛みを持ったのかと知り、胸を痛めました。しかし娘は、信仰の勝利をつかんだのです。こんなに嬉しいことはありません。そして彼女は献堂式後、この新しい教会堂で結婚式を挙げたのです。


 数年前の、あの親子の会話がふと思い出されました。娘は隣町で幼稚園の先生をしていたこともあり、結婚式には二百人を超す人がお祝いに集まってくれました。娘を嫁に出す寂しさもありましたが、こんなにも多くの人から愛され祝福されている娘を見て、褒めてあげたくなりました。







土地や建物を持つことになり、三年前から準備をはじめていた、宗教法人格の働きも、この年取得することが出来ました。何もかも感謝です。


 五年前に保育園の社会福祉法人格を取得することが出来、今度は宗教法人格を取得することが出来たのです。


 主は、信じる者に最善をしてくださるお方です。私は一度、伝道牧会に失敗した牧師ですが、主は、そんな私を拾ってくださり、もう一度立ててくださいました。


 そして、会堂が新しくなってから、あんなに牧師になることを反対していた私の母が、毎週礼拝に来ることを楽しみにし、息子の話を聞くようになりました。


 母が、礼拝に出られるようになるまで三十三年かかりました。三十三年間の祈りが聞かれたのです。主は生きておられます。


 つづく・・・

 「水郷めぐみ教会の歩み」も更新予定です。