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5、新しい地へ




 ここは私の故郷です。


 教会は焼失して後、私たちが任命を受ける前年に新しく建てられました。出来上がったばかりのピカピカな教会堂でした。


 この教会の歴史はだいぶ古く、大正時代までさかのぼることが出来ます。そのころ銚子の町に宣教団がありました。名前は、ヘブシマ・ミッション、と云いました。代表者はロイ、P、アダムス先生。アメリカから来た宣教団で、地方の小さな町に拠点を置き、この辺り一帯を伝道していたのです。


 小島伊助先生は銚子の出身です。先生のご両親は、茨城県の鉾田町から住まいを銚子に移されたと小島全集に書かれています。お父さんの仕事は、船を使っての運送業でした。


 ヘブシマミッションに、松江のバックストン宣教師の下から、都田友治郎先生やその他の伝道者が送られて来て働きに加わりました。笹尾鉄三郎先生もよく応援に来られたといいます。


 日本人の働き人を得た宣教団体は、千葉県の旭、佐倉、佐原、茨城県の潮来、鉾田と働きを広め、群の出来た潮来には都田友次郎先生一家が派遣され、教会形成を始められたのです。


 しかし、教会は激しい迫害を受けました。礼拝をしているとき祇園祭の御神輿を担いだ若者達が教会内に押し込んできたこともあったと聞きました。


・・・・・


 潮来は、鹿島神宮参拝の人たちが泊まる町であり、遊郭が置かれていました。都田先生は、町の中心地を見下ろす丘に登り、涙ながら「主よ!赤提灯の多いこの町に、あなたの十字架を建てさせてください」と、祈ったと言います。


 ご子息、豊三郎先生は、後年潮来に来たとき、「赤提灯ばかりだった潮来の町は、今日、赤提灯がなくなり、三つの十字架が立った」と、同じ丘に登り喜びの涙を流しながら祈りました。


 この教会から献身した者、牧野牧師、宇留野(藤岡)はる牧師、荒原たける兄弟牧師等、聖書学院に入学した若者が多くいたようです。


 しかし、余りにも激しい迫害とお子さんの病のため、都田先生は四年で潮来から佐倉に移ったのです。その後、潮来には誰も伝道者が来ることなく、戦後を迎えました。


 戦争が終わって信仰の自由が回復されてから日本ホーリネス教団は福音十字軍の働きを始めたのでした。潮来にも来て、天幕伝道を開始しました。すると昔の関係者が集まり、また新しく信仰を持つ人も起こされ教会が再開されたのです。






 この様な長い歴史を持った教会でしたから、信仰の長い人たちが何人もいました。教会には毎年のように本部から婦人牧師が派遣されていました。


 教会は新会堂ができたので牧師夫婦の派遣を求め、私たちが任命されたのです。生まれて二ヶ月目の赤ん坊を抱えて到着しました。


 しかし、教会は会堂建築をしたばかりで借金があり、牧師給は十分でありませんでした。そこで私たちは学習塾を三年間しました。


 また伝道もよくしました。教会で待っているだけではここにくる子供達に限界があると思い、隣町に出ていって農村集落センターを借りて集会をしました。もう一つ別の集落センターも借りました。


 そこも教会から離れていて子供達が自分から教会に来られないので、私たちが行って集会を始めたのです。


 当時、三カ所で集会を行い、一週間に集まった子供達は百人近くいたと思います。田舎の町でよくもこれだけの子供達が集まったと自分でも感心しました。多くの子供達に福音を伝えることが出来る喜びでいっぱいでした。







また教会は沢山の高校生で満たされました。


 ある高校生は、教会の庭におしめが干してあるのを見て、近親感を持ったと話していました。


 クリスマス会を開くと高校生が次々に集まり、教会いっぱいになって、入れない生徒達は帰ってしまいました。救われる高校生が起こり、一度に五人の生徒が洗礼を受け一年で九人、次の年は十一人と受洗者が与えられました。


 礼拝は二倍になり、借金も予定より早く返済することが出来ました。小さなリバイバルがあったのかと思います。


 ところが春になり、高校を卒業した生徒達は就職、進学で次々に潮来を離れていくのです。四月になると礼拝者は半分になってしまいました。私はがっかりしてしまいました。


 前任地である東京の教会に若い人たちが多かったのは、地方から上京した人たちがいたのです。


 潮来からそれぞれ新しい場所に行く人たちのために、彼らにふさわしい教会を見つけ、彼らと一緒に行き、牧師先生に挨拶してこれからの信仰生活をお願いしました。







教会の責任者になると様々なことが起こってきました。


 潮来に就任して間もなく、教会役員の方が私のところに来てこんな話をしました。


 「先生、信仰の後継者を作ることは大事なことです。それにはクリスチャン家庭を築くことです。積極的に結婚のためにも労してください。これも大事な伝道です」


 私はこれを聞いて、本当にそうなんだと思いました。早速、教会員である兄弟の写真を持って上京し、以前いた東京中央教会のつてを頼りに、これと思う人を訪ねました。


 何人かに会う約束を取り、話を進めたのですが、田舎の農家に嫁いでくれる人はいませんでした。


 がっかりして帰ってこようとして乗り換えの駅に来ました。そこの近くに若い信徒の方が働いているのを思い出し、最後の話と思って寄ってみました。


 「先生、何しに東京に来たのですか」。「はい、用事はこれです」と話し、写真を取りだしました。


 そこで急に話が進んでお見合いをすることになったのです。そして、二人は結婚へと導かれたのです。東京から農家にお嫁さんが来る話は、教会の周辺で話題になり、よい証となりました。


 それから、次々と結婚の話がまとまっていき、一年に数組の結婚式をお世話する恵みに預かりました。一時、自分は結婚牧師かと考えるようになったこともあります。







潮来で二年目を終え、三年目を迎えるようになりました。同じ町にあったバプテスト教会のO先生と交わりをいただくようになりました。


 O先生は瀬戸内海で福音丸に乗り、小さな島々に伝道したり、川崎で幼稚園を始め、教会形成をした先生です。


 この時、すでに潮来幼稚園を開設し、教会は大きな祝福の中にありました。


 O先生は私を見るなり「平山先生。ホーリネスの伝道は盛んですね、でも残念なことは牧師が一年から二年で変わることです。これでは地に着いた伝道は出来ないのではと思います。先生も短期間で変わるのですか」と、話をされるのです。


 私はそれまでの経験を話し、潮来に残る人たちに伝道したいのですと話しました。先生は「それなら幼児伝道をしなさい。彼らは地元に残りますよ」。この様に言われました。


 私は「ホーリネス教会で、幼稚園をするのは難しいのではないか」と、話しました。


 すると先生は「もし教会の人たちに説得が必要なら私がしてあげます」とまで言われるのです。


 「幼児伝道」この言葉が私の心の中に留まったのです。







この年、箱根ケズイックコンベンションに行き、このことを集中的に祈りました。そして与えられたのが、ヨハネ福音書21章の「私の小羊を飼いなさい」でした。


 これは主の働きであると確信して教会に戻ってきました。しかし、教会に話をするためにはもう一つ解決しなければならない事がありました。


 そのことを聞くために車田先生を訪ねました。


 そして私のビジョンを話すと、先生は口を開いて「今のホーリネス教団は幼稚園を教会が行うことは反対しませんよ。地方の教会ではよい働きをしています。環境が整っているのでしたらいいんではないですか。」


 いよいよ確信を強めた私は、教会に「幼児伝道を始めたいと祈っているのですがどうでしょうか」と、話をしました。色々と意見が出ました。


 何回か話し合いを続けて結論が出るときとなりました。大きく二つに意見がでました。ひとつは「地元に根付いた伝道として幼児伝道は必要です。」と言う意見と、「この教会は保育園をするために建てられたものでないから、先生がするのでしたら個人で、教会と切り離してして下さい。」と言う意見でした。


 この二つの考えは一つになることがありませんでしたので、私は自分で土地を探し、銀行から融資を受けて園舎を建て、子供達を集め「小羊保育園」を開設しました。昭和53年4月のことでした。


 心配していた子供達は開園時に36人集まり2クラスで始めました。私が園長、家内が主任、教団から派遣された女子の伝道者が保育士として、スタートを切りました。


 町には公立の幼稚園とバプテスト教会の幼稚園がありましたが、お寺での幼稚園、保育園もあり盛んに働いていました。


 「小羊保育園に集まった幼子達は福音に接する機会が与えられた。それだけでも感謝です。」家内は喜んで話していました。彼女は小学校の先生になる夢を持って新潟大学の教育学部で学んでいましたので夢が叶ったと喜んでいました。







月曜から土曜日までは、これと言って目立つ働きはあまりありませんでした。説教のための学び、祈りは教会内でします。


 近所の人たちは、朝から教会にいる私たちを見ていて「牧師とは何をしているのかな。どこにも働きに出かけないで毎日何をしているのか」と不思議に思っていたようです。


 たまに家内と、訪問に出かけます。「あら、教会の先生、お二人そろってどちらにお出かけですか」・・何か遊びにでも行くのかと云わんばかりの目で私たちの後ろ姿を見ているのです。


教会にいて祈りをしても、学びをしても近所の人には牧師の働きが理解できなく、まるで毎日夫婦で遊んでいるように思えたのでした。


 田舎では忙しく体を動かして働いていないと、怠け者と見なされる傾向が強いのです。そんな中、保育園を始めることによって、子供のため、家庭のために毎日働いていることは地域社会の人たちにとってよい証しのこととなりました。


 この様なことを通して故郷の人たちは、「平山は家を出て牧師になったというが、人のために働いているのだ」・・このように受け止めてくれるようになったのです。そしてだんだんと地域の人たちが私たちを、牧師、と認めてくれるようになりました。


 今ではすっかり「潮来でキリスト教の牧師をしているのは平山だ」と、知られるようになりました。ですから私はこの町ではいつもキリスト教の看板を背負って歩いている気持ちです。







毎年夏、アメリカの学生が私たちのところにホームステイし、英会話教室を開きました。この働きは宣教団体が企画したものでした。


 アメリカで、日本に伝道する思いのある学生達を募り、七月、八月の二ヶ月間、日本に来て英会話を教えながら伝道する働きでした。


 この話が教会に伝わったとき教会は手を挙げたのです。「え。なんで」と、思いましたが、結局引き受けることになってしまったのです。「でも、どなたが、彼らを引き受けて世話をして下さるのですか」・・こう言っても誰も手を挙げる方はいませんでした。(一年間は信徒の方が引き受けて下さいました。)


 皆さん、ただ黙っているだけです。その目を見ると「先生が、世話すべきでないか」と、物語っているようでした。仕方ないので引き受けることになりました。


 なにせ、学院時代と、その前の高校生時代から英語は全くだめでした。時々宣教師が説教すると、通訳者が話す前に皆さん笑うのです。その時私は、何んでみんな笑っているのか知らず、一人取り残された変な寂しい気持でいました。


 通訳者が日本語に直したときはユーモアの雰囲気は消えてしまい、一人寂しく笑顔を作った者でした。


 生まれて最初に宣教師の説教を聞いた時、見事に通訳する方の話を聞きながら、この言葉は通訳者の言葉かと感心して聞いていました。そんな私ですから、アメリカ人と生活を共にすることに対してとても心配しました。


 アメリカ人は何を食べるのか。風呂はどうするのか。トイレは。心配は尽きませんでした。宣教師の先生に話すと「ダイジョウブ、大丈夫」の返事だけです。教会員の人たちは、牧師は何でもするものと、思っています。


 「僕は心配なんだがどうしたらいい」家内に話しました。「平気よ。やってみましょう。私、楽しみにしているのよ」。「お前は国立大学に入れる頭があるからいいかもしれないが僕は高卒、それも真面目に勉強していなかった高校生だったからな」と話しても家内は、私の心配を理解しようともせず彼らが来るのを楽しみに待っているのです。







心配ばかりしては何の解決になりません。


 まず、英会話をどうにかしなければならないと思い、本屋に行きN,H,Kラジオ基礎英語を買い、毎朝ラジオを聞きながら英語の勉強をしました。


 この勉強はA,B,C、から始まるのです。さすがにアルファベットは出来ていました。「基礎英語は、ちっと易しいかな」考え直し、「続基礎英語」に変えてみました。


 しかし、朝のこの時間帯は、私にとってディボーションの時間だったのです。「困ったな。もう少し早く起きなければならない」・・保育園の仕事をしていたので、私にとって一週間、毎日が仕事の連続でした。休む時もなく働いていました。


 「もう少し早く起きるのはつらいな。やっぱり駄目か」「でもアメリカ人と話が出来たら楽しいだろうな」考えながら、英語の勉強を始めました。


 放送の時間になるとカセットテープのスイッチを入れ、その後、聞くようにしました。一カ月の放送がまとまって売りに出されていたので、そのテープも買い求め英語の勉強を続けました。


 これ以外、私に出来ることはないので、このことを続け、本番を迎えたのでした。







さあ、いよいよゲストが来ました。自己紹介は何とか出来ましたが次が続きません。お互い黙っているだけです。


 私は、続基礎英語の本を持ってきてこんな感じかなと思うところを読んでみました。すると、彼女は急に笑顔になりとても喜びました。私もホッとして喜びました。私の英語でも通じた。


 カルチャーショックでした。ご飯とみそ汁も喜んで食べてくれたのです。住まいは保育園の一室をあげました。園児達も喜びました。おかげで父兄の方々に間違った印象を与えてしまいました。


 「園長先生はさすが牧師ですね。英語が話せるんでしょう」・・皆さんがその様に思うので、あえて「私は出来ませんよ」と言う必要もないと思いそのままにしています。


 アメリカ各地から来た青年達と友だちになったのもよかったと思っています。集まってきた人の中には、救われ、信仰を持ち、洗礼を受ける人も起こされました。


 この当時はまだ外国人が珍しいときでしたのでその効果もあったと思います。一緒に買い物に行くとき、子供達は金髪の彼らを見て「ア!外国人だ」と、振り向いたものでした。この働きは七年続きました。







私たちの思いと、違う思いも教会に中に生まれてきていました。


 ある時、他の教会から来ていた青年が、私に質問状を郵送してきたのでした。彼は遠くから日曜礼拝に潮来まで来ていたのです。


 私はその質問状を読んで驚きを覚えました。便せん六枚にぎっしりと書いてあるのでした。最後にこれらについて私に返事をして欲しい、と書いてあるのでした。


 しかも私の知らないところでこの質問状は教会員の間に配られていったのです。中には同調する人もあり、それらの人の家で牧師に対する話し合いが続けられていたのでした。


 そして、表面化してきたのです。私は本当に驚いてしまいました。教会の人たちと話し合いの時を持ちましたが平行線でした。


 いよいよ困って教団本部に行き相談しました。教団からも委員の先生が来てくださったのですが問題は解決されませんでした。そこには伝道に対する認識の違いがありました。


 教会員の中には、私たちの建てた教会は、伝道一本で進むべきである。保育園をする牧師は必要ない・・との思いがあったのです。


 本部も車田先生も「これからの伝道にとって幼児教育はとても大事なことだから、出来る環境があるなら是非しなさい。」と、勧められました。しかし、ある人たちの考えは違っていたのでした。


 私は教会の働きを第一にしてきたつもりでしたが、私の働きを受け入れられないことがあったのでしょう。それからは、私に対する信徒の思いは大きく変化してきました。


・・・・・・・・・・


 「先生ご存じですか。平山先生を信頼する教会員はほとんどいませんよ。皆さんの気持ちは、先生から離れています」


 ついに教会堂の中で、私たちをはずしての話し合いが持たれました。


 それからは講壇に上るとき、心臓はドキドキ、足はガクガク。口はカラカラに乾くのです。聖日が近づくとストレスが大きくなるのです。


 金曜日頃から食欲が無くなり胃が痛み始めてきます。説教することが喜びでなく、苦痛となってしまいました。説教をはじめると、ある人は聖書を、パラパラと開けたり、閉じたりするのでした。


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 それでも次の年度、任命を受けて潮来に帰ってきました。そして、役員さん宅に挨拶に行きました。「今年も任命を受けたのでよろしくお願いします」。


 その後、数日してから、数名の方が教会に来て「牧師先生に話がある」と、言うので応対しました。そこでも色々と話がされました。しかしどうしても理解してもらえることが出来ませんでした。


 ついに家内はその場で泣き出してしまったのです。話が終わってから、私と家内は「これ以上、この教会にいるのは無理だから、本部に牧師休職の手紙を書いてここを去ろう」と、話し、教団本部にその旨の手紙を書き、18年間牧会した教会を去ることになりました。


 大きな悲しみと、痛みを持って荷物をかたづけました。その時私の胸には「もう牧師を辞めたのだからこんな本はいらない」・・少しやけっぱちになり、本をあげたりして、教会を去りました。


 しかし、日曜日はすぐに来ます。さあ、日曜礼拝はどこの教会に行こうかと迷いましたが、隣町の他の教団の教会に私たち三人はお世話になるようにしました。