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4、初めての任地




 最初の任命式はとっても緊張しました。今と違い、任命発表までどこに派遣されるか全く情報がないのです。遠いところか、近いところか。あるいは地方か、都会か。


 若かった私達はどこに任命されようが、主に捧げた身体、どうぞご自由にお使い下さい、と祈っていました。さらに、神様が無能無学な私を牧師として受け入れてくださることを思えば感激で涙がこぼれていました。


 イエス様の救いをいただかなかったら、田舎で遊びほうけていたであろう私を、イエス様は救いに招き入れてくださっただけでなく伝道者として召してくださり、今、主の御身体である教会に牧師として派遣してくださる。このことを思うと目頭が熱くなり、感激でいっぱいでした。






 教団の任命は北海道から始まり、段々と南に下っていきます。東北地方、北陸地方、関東地方、と続きました。


 そして、ついに私たちの名前が呼ばれたのです。「東京中央教会、平山豊治、同じく和子」。


 当時ここには、車田先生ご夫妻、松原先生ご夫妻、副牧の諸先生方がおられました。それらの先生方が次々に呼ばれていきます。最後に私たちが呼ばれたときはびっくりしました。


 ホーリネス教団の中心的な教会に。余りの驚きに、その他の任命は全く耳に入りませんでした。任命式が終わって何人かの先生方が「おめでとう!」挨拶に来てくださいました。しかし、その次に「あそこは大変だよ。頑張ってください」と皆さん、一言付け加えてくださったのです。


 私はそれまで中央教会は雲の上のことであり、小さな教会ばかりで訓練受けてきましたので何が大変かわかりませんでした。






 私は千葉から、家内は副牧をしていた大田区:旗の台教会から荷物をそれぞれ東京中央教会に運んできました。私たちにとっては新婚第一歩の生活ですから、いささか甘い思いもあり、どんなところで生活が始まるのかなと、少しの期待を胸に抱いて任地の教会に着きました。


 案内されたところは会堂二階、とても広い部屋でした。二十畳近くあったと思います。案内してくださった先生は「平山先生はここで生活してください」と、話してくださいました。


 部屋は広いのですが、生活するための台所が、どこを探しても見あたりませんでした。「どこで料理するのですか」と尋ねると、先生は押入のふすまの前に正座して、下のふすまをおもむろに開くのでした。


 そして、その中に首を入れながら「ここに台所があります」窮屈そうに教えてくださったのです。一瞬何を語っているのか分かりませんでした。私もその場に正座して押入の中を覗くと、確かに水道の蛇口が一つ、それに流しが置いてあるのでした。


 その日から、家内は正座し、首を押入の中に入れながら、洗い物をしたり水を使ったりして、台所仕事をし始めました。窓は小さいのが一つ、夏の暑さはものすごいものでした。開けた窓から、丸の内ゲリラ爆発事件の爆音が聞こえました。


 しかし、私にとっては愛する人と一緒になれたし、大きな教会に、それも都会の真ん中の教会に任命を受けたと云うことだけで毎日が楽しく、生き生きしていました。ここは神様が私たちに与えてくださった任地である。しっかり受け止められたのです。


 でも何故か、中央教会は大変だよとの声がどこからともなく耳に入ってくるのでした。実際、素晴らしい先生方が沢山いらっしゃっておられますから説教をするわけでもなく、家庭集会でお話しをすることもありませんでした。


 主な働きは広い会堂の掃除でした。しかし、車田先生の近くに居ることが出来ることは多くのことを学ぶ事となりました。先生は説教家であり、聖人でした。日本の福音派を代表する器でした。この時八十七才の高齢でありましたが、直接先生の説教に触れられたことは大きな恵みでありました。


 また、毎朝、先生方と早天祈祷会を持たせていただいたのも素晴らしい恵みの時となりました。先生の日常生活からも多く教えられました。特に先生は私と同じ茨城県の人でしたので、私にも色々と声をかけてくださいました。






 中央教会での奉仕は前評判とは違い、私にとって楽しい奉仕の場となりました。若い青年が沢山いました。彼らと一緒になり、機関誌を発行したり、日曜日夕方は、教会の台所(私たちの使っていたのとは別の台所)で男子も、女子も区別なく食事当番をし、夜の伝道会に臨みました。


 伝道会開始30分前には、数人でグループを作り、路傍伝道をし教会に誘いました。


 ある時、夕食の時間が遅くなり、路傍伝道が出来ないで集会を始めたときがありました。その時電話が来て「今日は、教会の皆さんどうしましたか。いつもの声が聞こえませんので心配しました」と、話されるのです。


 この方は家の中で私たちが日曜日ごとに歩き回るのを楽しみにしていたのでした。教会には来ませんでしたが、どんな伝道の働きでも無駄になることは決してない事を学びました。






 ある時、礼拝が終わってから、一人のおばあちゃんが私を呼び止めて「先生、毎日忙しいですか。時間がありますか」と聞くのです。


 背の低い、小さおばあちゃんでした。少し腰が曲がっていて、鋭い目で私を見つめ、話をするのです。「はい、時間はありますが」と答えました。おばあちゃんは「私の家を訪問してくれますか」と何かを求めるように話すものですから、「松原先生に相談してお返事します」と答え、松原先生の許可の下、小田急線新宿から二つ目の駅近くにあるお家を尋ねることになりました。


 線路脇で、電車が通るたびに家全体が地震のように揺れ、騒音で話を止めなければならないような所でした。玄関に入り、声をかけるとおばあちゃんが別人のようにニコニコしながら「先生、待ってたよ。よく来てくれたね」と言いながら家の中に招き入れてくれるのです。


 家の中にはベットの上で横になっていた、体の大きいご主人がいました。「先生に来ていただいたのは、私の主人に伝道して欲しいからです」と話されるのです。


 聞くと、ご夫妻は昭和初期のホーリネス教会リバイバルの時、淀橋教会で洗礼を受けたというのです。その後、戦争が始まったり、教団が分裂する様を身近に見たりして、ご主人は教会から離れてしまったというのでした。


 最近、倒れて寝たきりになり、歳も七十を超えてきたので生きている内に何とか信仰復興をして欲しいと祈っていたのです。「平山先生、何とかしてくれませんか」「それなら週一回お訪ねしましょう。おじいちゃんいいですか」・・話しかけるとご主人は反対側を向き返事もしませんでした。


・・・・・


 次の週から一生懸命にこのご夫妻を訪ねました。時には車で行ったりしました。


 集会を終え、止めておいた車の所に帰ってみると、止めて置いたはずの車がなくなっているのです。一瞬盗難にあったかと思いました。よく道路を見てみると、車は代々木警察署に保管してありますと、チョークで書いてあるのです。代々木警察署まで歩いて行き、注意を受け、多額のお金を支払って車を受け取りました。


・・・・・


 おばあちゃんから、ご主人は甘いものが好きだと聞いて、新宿駅にあるデパートで美味しそうな、ようかんを買ったりして訪問を続けました。


 そんな事もあってか、ご主人は段々と顔を私の方に向け、私と話を始めるようになったのです。特に昔の事を聞くと喜んで話してくれました。


 若いときのことはよく覚えていて、中田監督の事や、小原先生の事、車田先生のことを話してくれるようになりました。私も話をよく聞くものですから、おじいちゃんは訪問日を楽しみに待つようになりました。


 そんなある日、おばあちゃんに「先生。話ばかりでなく、もっと伝道してください」、この様に言われ、ああ世間話が多かったなと反省し祈り始めました。


 おじいちゃんは自分からお祈りできませんでしたので、「私のあと、同じようにお祈りしてください」と話し、祈り始めました。それはおじいちゃんが、今まで神様から離れていた罪を悔い改め、もう一度神様に従いますとの信仰告白の祈りになりました。


 最後に「アーメン」と祈るとおばあちゃんは、とっても喜ばれ私の顔を見て、ニコニコしながら「先生、ありがとう」と何回も言われるのです。その後の集会は、とっても恵まれた集会になりました。昔、歌ったリバイバル聖歌を三人で歌い、祈りました。(この聖歌は今も私の手元にあります。)


 私たちの背中を通るようにして走る電車の音も気にならなくなり、楽しい交わりの時となりました。






 ある時、「先生は写真機を持っておるかね」聞くのです。「持っていますよ」返事をすると、「次の集会の時、持ってきてください」と話されるのです。


 次の訪問日、おじいちゃんは、床屋さんに来てもらって、散髪した頭を触りながら、「写真を取っておくれ、私もそう長くないから葬儀の時の写真を今から用意しておきたいんだ。平山先生に写してもらえたらこんな喜びはない」と言われるのです。


 私は、24枚のフイルム全部に、お二人の写真を写しました。その後、三人で葬儀用の写真を選び、大きく引き延ばし額に入れ、ベットの脇に置くようになりました。それは、葬儀の時に使用されたのです。ニコニコした、とっても良い写真です。


 私は葬儀の時、写真に向かって「おじいちゃん、天国に行けて良かったね」と最後の別れを告げました。






 中央教会で、長男が生まれました。「東京中央教会始まって以来、牧師家庭に子供が産まれたのは初めてだ」。皆さんとっても喜んでくださいました。


 風呂桶を買ってくださったり、住まいを別の部屋に移してくださったりして、心くばりをしてくださったのです。


 それまで私たちは、神田川の側にある銭湯を利用していました。南こうせつの歌にある歌詞そのままの生活でした。


 寒い冬の夜、家内と二人で銭湯に行きます。出る時間を決めてそれぞれの風呂に入っていきます。しかし、風呂は私の方が早く出てしまうのです。


 銭湯の前でタオルと石鹸を持って家内が出てくるのを待っているのです。せっかく暖まった身体が段々冷えてきます。「早くあがってこないかな」と思いながら待っている姿を、通りすがる人が興味深そうに見るのです。その時は「神田川」の歌の存在を知りませんでした。


 教会には、近くにある病院の看護学校から沢山の生徒さんが見えていましたので、その病院で出産をすることにしました。


 日曜日、礼拝中に破水が始まり、礼拝後急いで入院、次の月曜日に息子は生まれました。1975(昭和50)年2月10でした。


 連絡を受けてすぐに病院に駆けつけ、生まれたばかりの我が子と対面しました。顔は真っ赤です。その赤子を腕に抱きました。腕に伝わってくる重さを感じたとき、父親としての実感がジワーとわいてきました。






 教会員ばかりでなく車田先生ご夫妻もとても喜んでくださいました。


 「平山兄弟、赤ちゃんはどうですか」。にこにこしながら毎日見に来られるのです。「お乳は出ますか。よく飲んでいますか」「これは、おぼっちゃんの誕生記念に差し上げます」と言って、きれいなアルバムを下さいました。


 車田先生は、私を書斎に呼んでくださって「これは素晴らしい書物ですよ。記念にあげます」と言いながら、ウエスレーの説教集を二冊手渡してくださったのです。


 「エ!これは英語でないか。私には読めないな。どうしよう」一瞬迷いましたが「ありがとうございます。一生懸命読みます」とお礼をしていただきました。その本は今でも読まれず本棚の中にあります。読むことは出来なくてもこの本を見るたびに昔を思い出させてくれます。


 命名は車田先生にしていただきました。旧約聖書、士師記第6章12「剛勇丈夫よ、エホバ汝と共に在す」文語訳でした。


・・・・・


 退院日は東京では珍しく大雪になった日です。


 潮来から私の母親が来てくれ、数日間面倒を見てくれました。父も嬉しかったのでしょうか。家から半俵の米を担いで、電車に乗り継ぎながら祝いに来てくれたのです。


 本当に恵まれた素晴らしい、東京中央教会での牧師生活でした。その長男が今、牧師として働いていることは感謝なことです。


 私たちの東京中央教会での奉仕は一年で終わってしまいました。任地が変わることをおばあちゃんに、どのように話すかとても悩みました。


 最後の訪問は、暗く重い訪問でした。「どうして先生は一年で行ってしまうの」泣きながら話すのです。


 その後、私たちが潮来で伝道しているとき、おばあちゃんは一人で新宿から電車に乗り、尋ねてきてくれたのでした。その日、銚子駅から電話があり、お宅の教会に行きたいという老婦人がいるのだがと云うことでした。おばあちゃんは、千葉駅で乗り換えを間違えて銚子まで行ってしまったのです。


 沢山の思い出を残して、中央教会から茨城県潮来町にある教会に任命を受けました。