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1、生まれてから




 私が生まれたのは、1947年(昭和22)7月18日の暑い日でした。戦争が終わって二年目。戦地で戦死した人、また無事帰ってきた人。戦争のにおいが濃く残っていた頃でした。私の母は近くの水原村から潮来、延方村の農家平山家に嫁いできました。






 両親は、身を粉にする様にして、朝早くから夜遅くまで一生懸命に働きました。わずかな田畑を耕し、又出稼ぎに行ったり、養豚を始めたりしました。


 このころの農家は、稲を鎌で一株つづ刈り取り、その後二、三日天日干をしてから乾いた稲束を船に乗せ家まで運び脱穀するのでした。両親は脱穀した藁を次々に庭に放り投げます。


 「 豊治。ぐずぐずしていると藁が貯まってしまうべ、早く片づけろ! 」。


 脱穀機の音に、負けないくらい大きな声で父が言うのです。両親が一心になって脱穀している姿を見ている私は、何とかして力になってあげたいとの思いで、額から流れ出る汗を気にもとめずに夢中になって手伝います。


 脱穀が終わると籾が貯まります。次の作業は、その籾をざるに入れて別な場所に移すのです。もう休み無しです。息つく暇も無いような忙しさです。


 小学生の私にとって疲れがピークになりました。それでも歯をくいしばって一生懸命です。父が「そろそろ休むか」と、言う言葉をどれほど待っていたかしれません。


 仕事が一区切りつくと、母が私のところに来て「 豊治。父ちゃんが小遣いくれたよ 」と笑顔で言いながら五十円を渡してくれるのです。次の日、学校から帰ると同時に私はその五十円をしっかり握って本屋さんに駆け込み、月刊誌を買いました。


 私が本屋に買いに行くのがいつも遅いので売り切れてしまうこともありました。本屋の叔父さんは「 あんちゃん。これとって置いたよ 」と言って渡してくれるのです。楽しみにしている連載がありました。


 その漫画を読むのは何よりの楽しみでした。次回はどんな展開になるのかなと次号が発売されるのが待ち遠しい気持ちでいっぱいでした。当時はテレビもありませんでしたから、漫画を読むのが娯楽と言えば娯楽だったのかもしれません。


・・・・・


 稲の収穫仕事が終わると、今度はむしろ織りです。父が縄ない、母がむしろ織り。


 両親は、朝早くから夜遅くまで働いていました。私たち兄弟が寝るときも働いていました。私たちが朝起きたとき、もう働いているのです。「 父ちゃん、母ちゃんはいつ寝ているのかな 」と不思議に思いました。


 その様に努力して両親は、少しずつ田畑を買い求めたのです。ですから私の目に焼き付いている両親の姿は、毎日一生懸命働いている熱心な仕事姿だけです。


 私はそんな親の後ろ姿を見て小学生の頃から家の仕事を手伝いをしていました。


 私は両親から「勉強しなさい」と、云われたことは記憶にありませんが「仕事を手伝いなさい」は毎日のことでした。


 しかし、それがイヤでなく、当たり前のこととして受け止めていましたから、苦労とも思いませんでした。かえって田植えが上手になったことや、稲刈りが親のように早く出来るようになったことに喜びを感じていました。親から「上手くできるようになったな」と褒められるのが嬉しかったのです。私の小学生、中学生時代の生活はそんなでした。


 遊びをしなかったのかというと遊びもしっかりしていました。夏になると近くの川に行って上級生などと泳いだり、大きなケヤキの上に棒を横に縛りつけ、そこに板を置き、その上にむしろを広げるのです。木の上の住民になって昼寝や夏休みの宿題などをして遊びました。


「おい、今日は前川にいって泳ぐぞ。一緒に来るか」

「うん、俺も行くから連れて行って」

「よし、ついてこい!」

上級生は下級生を遊びに誘うのです。泳ぐことも教えてくれました。


 川幅広いところでは、百メートル。狭いところでも三十メートル規模の川が近くを流れています。まだ水はきれいでした。学校にはプールがありませんでしたからこの川が、学校指定の泳ぐ場所だったのです。


 暑いときは夏休み前に泳いでいました。でも泳ぐのは夏休みになってからと、学校で決められていました。私たちは、そんなことお構いなく泳ぎます。


 学校に行ったとき「おまえ達の中で、休み前に泳いでいる者がいると聞いた。昼休みに検査をするから職員室に来い」先生が言うのです。「だましても駄目だからな、泳いだやつはちゃんと証拠があるんだ。それを見ればすぐに分かってしまうから」泳いだ私たちは、びくびくです。


 「証拠って何だろう」

 「それは鼻の頭がひかっていることらしい」

 「そんなら鼻の頭を砂でこすってみっか」


 私たちは急いで校庭に行って、手に砂を取り鼻になすりつけます。それを職員室から見ていた先生は「バカな奴らだ、あいつらはみんな泳いだ」と笑っていました。


・・・・・


 冬になると仕掛けを作って、ウナギ取りをしていました。先ず山に行って約一メータくらいの竹を切ってきます。もう私たちはどこに丁度いいあんばいの竹があるか分かっています。五十本くらい切ってきて長さを整えます。そこに一メーターくらいの糸をつけその先に針を結ぶのです。


 餌はザリガニ。すくい網を作りザリガニのいそうな場所を探して沢山取ってきます。取ってきたザリガニを針に一つずつつけます。餌が生きたままでないとウナギは食いつきません。それを近くの川に持っていき一本ずつ川に差し込みます。寒い冬にします。


 私たちは真剣そのものです。かかったウナギの数によって遣いが決まってしまうのです。このへんはどうかな、ここはウナギがいそうだ。明日の朝は大きいのが食いついているぞ。沢山取れたらいいな。期待をふくらませ寒さなんか何のその。


 翌朝まだ暗いとき起きだし期待を持って前日刺した竹を慎重にあげます。でもなかなかウナギは食いついていません。よくて五十本のうち三匹ぐらい。竹を上げた手にググッと感触が伝わったときの嬉しさは何とも言えない気分。晴れやかになりその日一日が楽しく過ごせる。


 捕まえたウナギを魚屋さんに売り、現金を頂いた手が何かしら震えます。今は下流に堰が出来たり、広い大きな前川を農地に変えたりして水郷の水のきれいな状態や、広々とした川が失われ、ウナギや魚がとっても少なくなってしまいました。


・・・・・


 ベビーブームの中にいた私たちのクラスは55人編成のクラスでした。先生はまとめるのが大変だったでしょう。


 授業中ふざけていると鉄拳が飛んでいました。「誰だ、今騒いでいたやつは。前に来い、足を少し広げろ、手を後ろに組め、奥歯をしっかり噛め、目を閉じろ」様々な注意をした後、左右のほほに先生の拳が来る。


 顔を赤く腫らして家に帰ると「 おまえどうしたのだ、喧嘩をしたのか 」、父が聞きます。「 イヤ違う、先生に殴られたんだ 」泣きべそをかきながら言うと、「 おまえが悪いことをしたから怒られるんだ、先生に謝ってこい 」 今度は家でもしかられました。このころは先生の権威は絶対だったのです。


 高校の卒業前後から、生活に落ち着きがなくなり、農業を嫌うようになってしまいました。気持は華やかな東京のネオンに向かっていました。親は心配していたようでしたが、何か機会を見つけて上京しようとの思いが大きくなってきたのです。


 同級生や先輩達が東京に就職し、お盆休みや、正月休みの時、田舎に帰って来るのです。久しぶりに会い、話をしていると、着ている服が、今までとは違い明るく、華やかさを持ったブレザーなのです。


 頭は坊主頭でなく、長髪にクリームを塗り「あのさ、東京て面白いじゃん」等と、東京生活を得意げに話している。「へー、東京に行くとこんなにも変わるんだ、俺も東京って行ってみたいなー」と、ぼーとしながら西の空を見ていました。


 町には舟木一夫の「高校三年生」や橋幸夫の「潮来笠」が流行していたときでした。


 思いは段々強くなり、親に話してみました。「そんなこと考えないでもっと仕事に励め。おまえは農家の長男で家の跡取りなんだぞ。」これが返事でした。






 しかし東京への憧れはいよいよ強くなり、高校を卒業したその年の稲刈りが終わったのを見計い、東京での仕事を見つけ、念願の東京生活が始まりました。いわゆる出稼ぎです。


 稲作農家は稲の収穫が終わるとこれと言ってまともな仕事がないのです。でも東京には仕事が沢山あるのです。知り合いを頼り紹介された仕事がありました。東京は初めてであり何も知らない私は給料が沢山もらえるという話に気持ちが動き上京しました。


・・・・・


 最初、いかだ師の仕事を始めました。給料は普通の仕事の2倍、半月払いです。


 当時、東京湾に入る船の約4割が材木を運んでいました。岸壁横付けが間に合わないので、船は沖に泊まり、海中に材木をどんどん落とすのです。それを小さな船に乗っている我々が待ち受け、丸太に乗り、いかだに組んで木場などに船で引いていくのです。


いかだ師は海の中で丸太に飛び乗ります。

「平山、見ていないで飛び乗れ」

 親方が怒鳴ります。

「だって、木が波に揺られているでしょう。怖いです」

「何を言っているかそんなことでは仕事にならないだろう」


私などはまだ慣れていませんから何回も寒中の海の中に転がり落ちたか分かりません。


 海が荒れて仕事の出来ないときは先輩に、銀座、吉原、上野などに連れて行ってもらいよく遊んだものでした。


「いいか、男の遊びを教えてやるからな。ついてこい」


 何も知らない田舎育ちの私を連れ歩くのです。懐は豊です。全部使っても半月後には給料が入るからと軽い考えで遊び回っていました。


 このころ上野で食べた馬肉のおいしさが今でも忘れません。ここの宿泊はプレハブ住宅。冷たい風が室内に吹き込みます。朝食、夕飯は、おひつに沢山ご飯が入っており、おかずはみそ汁と他に一品だけ。


 そこに秋田からやはり出稼ぎに来ていた数人の人がいました。彼らはいつも一緒で、秋田弁で話するのです。私はそれを聞いても全く理解不能です。まるで外国語の話を聞いているみたいでした。ですから、なかなか話の仲間に入っていくのが出来ませんでした。


・・・・・


 そんな寂しさから逃れるため、仕事の帰り道、ある店に寄って酒を飲むのを楽しみにしていました。ちょうどその店には、故郷の女子同級生が働いていました。


 酒を買いお金を出すとき店番をしていた女の人の顔を見るとどこかで見たことのある人のような気がしました。思い切って声をかけます。


「どこかで見たような気がするんだけど」

「あら、私もそう思っていたのよ」

話を聞いていた奥さんが言うのです。

「お客さんこの子は潮来から来ているんですよ」

「エッ潮来から、俺も潮来なんです」

「あっ、平山君だよね、同級生の私よ。どうしてここにいるの」


その言葉を聞いて思い出しました。同級生なのです。こんな所で会うなんて。なんか私の心に温かいものがこみ上げてくるようでした。店の奥さんも優しい人で時々家族の食事に招いてくれるのです。このことは寂しい私の気持を慰めてくれたのです。


「平山君。変なところに行っては駄目よ。これからは、私が東京を案内するから」


 優しく誘ってくれるのです。もう一人の同級生も近くにいて、それからは三人で喫茶店や、ボウリングなどに行くようになりました。まるで東京砂漠の中で新鮮なオアシスを見つけた様な体験で、毎週楽しくすることが出来たのです。


・・・・・


 そのころの東京は、とてもひどい環境であったと思います。経済の発展に比例するように、自然環境は悪くなる一方でした。毎日煤煙が空を覆い、一日外で働いていると顔は黒く、タオルで拭くと黒い汚れがハッキリと残りました。


 私たちが働いていた近くには「夢の島」なるゴミ捨て場がありました。名前は素晴らしいのですが、実態はひどいものでした。街路樹の葉は、すすで黒く積もったりしていました。


 いかだ師の仕事は、きつかったため半年で止めてしまい、田舎に帰ってしまいました。それに、田舎では春の農作業が始まるときでもありました。


 田植えが終わり、また田舎での仕事が無くなってきたとき、再び東京に仕事を求めて上京しました。


 今度は運転手の仕事です。蒲田の近くにアパートを借り、蒲田、藤沢市間を一日一回往復する仕事です。運ぶものは会社の書類関係で、とても楽な仕事でした。


 毎日制服にネクタイを締め、運転をしていたのです。時には、会社社長付き添い運転をし、ゴルフ場に行ったこともありました。


 そこでの扱いは社長の運転手でしたので、何でも好きなものを食べ、飲むことが出来たのです。もちろん支払いは社長です。帰りには社長から「ご苦労さん」と言われて、たくさんのチップを頂いたこともありました。


 でも、毎日の仕事を終え、帰り道、食料を買い込み、自炊するのは寂しいものでした。「 おかずを買うのは面倒だな、でも買っていかないとおなかが空いてしまうし 」「 もったいないな、仕方ないから明日の朝もこの残りを食べようか 」


 仕事を終え、途中買い物をし炊事、洗濯、そして風呂に入り一人で寝る。その間話し相手もなく寂しい夜の時を過ごす生活。アパートを借りての一人生活は寂しいものでした。






 仕事が終わると、一人住まいのアパートへ帰るだけ。友だちもなく、日曜日はひとり寂しく何をすることもなく、ただ部屋で寝ているだけでした。


 そんなある日、会社の女の子が聖書を持ってきて「平山君。日曜日、暇なら教会に行ってみない」私を誘うのです。女の人と日曜日デートするのは久しぶりでしたので、すぐO・Kでした。教会でもどこでもいい。そんな気持ちで日曜日を迎えたのです。


 しかし待っていても約束の時間にその人は現れず、別の男性がニコニコしながら私に近寄ってくるのでした。


 私は初対面でしたので、少し警戒していたところ「平山さんですか。私の姪は都合悪くなり来られなくなったので私が教会に案内します。一緒に行きましょう」と、いわば強引に私を教会まで連れて行くのでした。


 私としては女の人とデートできると思って少しおしゃれをしてきたのに、あれ、話が違うのではないかと気分を悪くしました。こんなおじさんと、それもどんな人かもしれない人と行動を共にするなんて。


 でも別に予定はなかったのでついついついて行ったのです。その時行った教会が初めての教会でした。その教会は国鉄大森駅北口の山王という高台にありました。


・・・・・


 駅を降りて駅前通りを越えると、目の前に高台があります。そこの細い階段を上がり切ったところに教会がありました。


 私は教会に案内され、恐る恐る会堂内に入って行きました。すると教会の人は、私を一番前に案内してくれたのです。仕方なく一番前の席に座りました。


 内心、困ったところに連れてこられたな、と不安で一杯でした。雰囲気が今まで経験したことのない何とも言えない場なのです。みんな話もしないでじーっと座り何かを待っているような姿勢でした。


 落ち着くには、たばこを吸うのが一番の方法でしたので、ポケットに手を入れ、たばこを出そうとしましたら、周りがそんな雰囲気でないので引っ込めてしまいました。それに灰皿がどこにもないのです。だれもたばこを吸うようには見えないのです。ここはどんな所なんだと緊張感が張りつめていました。


 礼拝が終わり、その場を逃れるようにしてすぐ玄関に行き、たばこを取りだし気持ち良く吸い始めました。


 一緒に来た人を待っていると、体の大きい牧師が現れ「 よく来ました 」と手を出すのです。握手をするなんてそれまでしたことがありませんでしたので、ただ手を握られ何がなんだか分からなくなってボーとなってしまいました。


・・・・・


 そんな私を知ってかどうか知りませんが、教会に私を連れてきた人は、嬉しそうな顔をして牧師に私を紹介しているのです。その後、牧師は会堂の中に入って行きました。


 ホッとしていると、今度はその人が私を離そうとせず「 平山さん、この後予定はありませんか。無ければ私の家に来て一緒に昼食を食べていきませんか 」と、にこにこしながら、声をかけてくれるのです。


 どうしようかなと考えましたが、私はこのままアパートに帰って貧しいご飯を食べるだけだったので「 昼食 」の言葉に惹かれてついていきました。


 多摩川を超えた、川崎にある小さなアパートでした。何故かその時、奥さんが教会から早く家に帰っていてご飯を用意していたのです。


 「 さ、遠慮なく召し上がれ 」の言葉につられ、久しぶりに家庭の味を頂きました。ごちそうになってから自分のアパートに帰ってきて寝ていると、夕方そのYさんが「 平山さん、これから教会で夜の集会があります。一緒に行きませんか 」と誘いに来てくれたのでした。


 お昼のこともあり仕方なくついて行き、夜の伝道集会なるものに参加しました。


 この時は、少し余裕があったのか、周りを見ることが出来ました。説教をしている方をしみじみ見ることも出来ました。朝、話をしたした人でなく別な人でした。


 話の内容はすっかり忘れてしまっていますが、初めて見る牧師に対する印象は残っています。その人は、普通の背広を着て話していました。それを見ていて、また話を聞きながら「 この人の会社は何かな。どこで仕事をしているのかな。話がうまいから課長ぐらいの立場にいる人かな 」等、考えていました。