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Q41、家内安全や商売繁盛を願う宗教はご利益宗教なのであって、キリスト教はそういうものとは違う、と聞いたことがあります。それでは、自分の幸せを願うことはいけないことなのでしょうか。(40代、主婦)


A41

◆キリスト教はご利益宗教?




 キリスト教は聖書のメッセージを土台としていますので、聖書が何といっているかが答えとなります。




 ところがその聖書は、一方では「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」(マタイ 16:25)とあり、自己否定の道が示されております。




 しかし他方では「祈るとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう」(マタイ21:22)ともあります。




 これらのみ言葉は矛盾するように見えますが、どちらも最終的には幸せが与えられるという点で、重なるところがあります。




 聖書はある意味で本当の幸せがどこにあるかを伝える書物です。ある敬虔な牧師は、「キリスト教は、究極的には真の意味でのご利益宗教だ」と言いましたが、わたしも同感です。




 しかし、一般的に考えられているご利益宗教とは、多くの点で異なります。






◆ご利益信仰と人格的信仰




 信仰者の在り方という側面から比較してみましょう。




 いわゆるご利益宗教においては、世界の中心に自分がいます。自分にとっての利益を願い、良いと思えない病、貧困、災害等を避けることを願います。ご利益があるならどの神でも構いません。




 しかし、聖書は自分を中心とした信仰の在り方そのものに疑問を投げかけ、さらに警鐘を鳴らしています。




 ご利益信仰に潜むこの自己中心性そのものが、実は大きな不幸の第一歩なのです。




 それに対して聖書で伝えられている信仰の在り方はよく「人格的信仰」と呼ばれます。それは自分ではなく神を中心としていくことであり、神との人格的信頼関係を人生の軸としていくことなのです。




 病気や貧困などから守られることも祈ると同時に、そういった苦難を神からの訓練として、受けとめることを学びます。




 神中心とは自分の利益のために神を利用するという生き方との決別をいみしています。






◆真の幸せはどこに?




 幸せを求めることは人間として自然なことです。




 しかし、何が本当の幸せなのか、また人生から幸せを奪うものが何か知らないゆえ、多くの人は表面的には豊かになった社会のなかで、もがいているのです。




 ヒルティーは「私は病気で幸福な人をたくさん見てきた。私は貧しくて幸福な人もたくさん見てきた。しかし、心が罪で腐っていて幸福な人には会ったことがない」と言いました。




 聖書は、罪こそ幸せを奪うものであると教えています。罪とは、神ではなく自分を中心として生きて行くその在り方(Being) を指し、罪の行ない (Doing) はその結果なのです。




 すなわち、罪を犯すから罪人なのではなく、罪人だから罪を犯すのです。ご利益信仰そのものの内に潜む罪こそ幸せを奪うものなのです。




 何が幸せなのかは人間には分かりません。これが私の幸せだと思ってつかんだとしてもその瞬間に空しく消えていきます。




 真の幸せは追い求めて掴むものではなく、神の前に罪を悔い改めへり下る時、神がそっと与えて下さるものなのです。



Q42、祈っても祈ってもなかなか答えられません。次第に祈ることがおっくうになってしまいました。祈りは答えられるのでしょうか。答えられない祈りを繰り返して、どんな意味があるのでしょうか。(30代男性、会社員)


A42


古代から現代にいたるまで、人間は変わりなく何らかの力ある存在に自らの願い事、祈りをぶつけてきました。




 しかし、そのとおりにならず、事が悪いほうに進むと、その人は呪われているとか、何かの祟りであるとよく考えられてきました。それはどなたに祈るのかを本当の意味で知らないからです。






◆祈りは聞かれるのか?




 祈りは科学的説明を越えた神との深くそして豊かな対話です。




 ところが現代人は科学的説明と矛盾する祈りの世界を軽視します。




 祈ってもその通りにならない苛立ちの中で、祈りの大切さを見失い、この時代の傾向に染まっていくなら、それは実に悲しむべきことです。




 しかし、もしキリストを信じその名によって祈るのなら、必ずその祈りは聞かれます。聖書はそのことを約束しています(ヨハネ14:13)。ただし聞かれるということと、祈りの通りに成ることとを混同してはなりません。




 ニューヨーク大学にあるリハビリテーション研究所の壁にかかっている、ある一人の患者の詩の一部を紹介いたしましょう。




大事を成そうとして


 力を与えてほしいと神に求めたのに、


慎み深く、従順であるようにと


 弱さを授かった。


より偉大なことができるように


 健康を求めたのに、


よりよきことができるようにと


 病弱を与えられた。




幸せになろうとして 富を求めたのに、


 賢明であるようにと 貧困を授かった。


世の人々の賞賛を得ようとして 権力を求めたのに、


 神の前に跪くようにと 弱さを授かった。


人生を享楽しようと あらゆるものを求めたのに、


 あらゆることを喜べるように 命を授かった。




求めたものは 一つとして 与えられなかったが


 願いはすべて聞き届けられた。


神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、


 心の中の言い表せない祈りは


  すべてかなえられた


私は あらゆる人の中で


 最も豊かに祝されたのだ。






◆様々な祈りの答え




 神は祈りをお聞きになるばかりではなく、必ずその祈りに答えられるのです。その答えは少なくとも五つあります。




 1)すぐその通り(叉は祈り以上)になる。




 2)ノーという答え(自己中心的な、叉は不信仰な祈りに対して、ヤコブ4:3、1:5−6)。




 3)待ちなさいという答え(忍耐が必要なとき)。




 4)予期しない別のことが答えとして返ってくる(祈りが真実であっても的がずれているとき)。




 5)しばしの沈黙(ヨブ記)。




 すべての場合において祈りは届いています。しかし答えは違います。




 あなたの場合、第一の答え以外でしょう。祈り続けていく時に必ず何らかの答えが与えられます。




 「天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に


 良いものを下さらないことがあろうか」(マタイ7:11)