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Q29、長い歴史を持つキリスト教の教会は、どこか暗くて堅いイメージがあるように思いますが、いったい教会とはどのような所なのですか。(20代男性、学生)


A29

◆表面的イメージと中味




 あなたの持っておられる教会のイメージは、確かに日本にある多くの教会に当てはまるかもしれませんが、第一印象では分からない部分があります。




 とはいっても暗くて堅いイメージは気になりますが、見方を変えれば、厳かで落ち着いた所、静かで敬虔な時を持つ所とも言えます。しかし、明るく活発な教会も数多くあり、ちょっと目を世界に向ければ、一つのイメージのみでは捉えきれないほど、いろいろな教会があります。




 教会には見える部分と見えない部分とがあります。「昨日教会に行きました」、「その角に教会があります」と言う時、多くの場合、教会堂をさしています。それは見えるものです。




 立派な教会もあれば、まるで教会とは思えないような貧弱な建物に十字架が掲げられて、「何々教会」とあるものもあります。




 迫害の中にある中国においては、多くの場合普通の家が教会になっており、立派な会堂などありません。しかし、そこにおけるキリストとクリスチャン同士の生ける交わりは、人に本当の命を与えています。






◆教会は建物?それとも




 もうお分かりのように、教会は単に建物ではありません。




 「教会」と訳されているもともとの聖書の言葉は「エクレーシア」といって「神に召し集められた集団」という意味です。




 この言葉に少なくとも三つの要素が含まれています。




 第一に、教会は「集団」であるということです。それは、建物ではなく、人と人のつながりをさしています。




 ある母親が、「せっかく新築したのに、子供たちは食事が終わるとさっさと自分の部屋に入ってしまって・・・」と言って、家族としての絆が弱まった事を嘆いていました。神の家族である教会も、その絆はそれを入れる建物以上に大切です。




 教会はある意味で人と人の絆ですが、歴史のある教会を遠くから見ると、その絆の集合体は組織化され、堅苦しく見えるでしょう。




 しかし、一歩入ってその絆が何によって築かれ、豊かにされるかを知ると、人間的な組織という見えない器の中のさらに奥にある教会の真の姿が見えてきます。






◆教会はどんな人々の絆?




 「召された者」のキリストにある絆が教会です。




 第二の要素は「召された」ということです。




 それは、神から離れ空しく滅びに向かっていた者が、神の恵みと目的のゆえに救い出されたということです。どんなに地位が高くても、お金があっても、周りが羨む様な生活をしていたとしても、神から離れていては真の幸福はありません。




 聖なる神との関係を回復するために、イエス・キリストは十字架にかかり私たちの罪を解決して下さいました。




 教会は、キリストによって神との絆を取り戻し、本当の幸せを味わい始めた方々の集まりなのです。その方々が立派だから、能力があるから、潔い生活を送っているから集められたのでは決してありません。






◆誰が教会の中心?




 第三の要素は、キリストが教会の中心であるということです。




 「神に召し集められた集団」という意味のエクレーシアの主体は、常に神ご自身です。神と人、又人と人とをつなぐ絆は、キリストによって築かれ豊かにされます。ですからこの絆の中心はキリストなのです。




 人間の側からも確かに堅苦しいと見える教会もあるでしょう。中心がぼけて、人間的な組織や建物などでこの集団を守ろうとすると、堅苦しくなります。




しかし、もし教会の中心が見えてきたら、堅苦しいかどうかといったことは、それほど気にならなくなります。



Q30、日頃の生活や、教会に出席するなかで、あるクリスチャンの姿に幻滅してしまいました。こうなるのなら、クリスチャンになどなりたくないと思う程です。どうしたらよいでしょうか 。(30代、働く主婦)


A30


◆人を見るなというけど




 まず何より、人にではなく神ご自身に目をむけることが大切なことです。




 しかし実際は、見ることの出来ない神を見、嫌でも見えてしまう人の姿を気に留めないことは至難なことでしょう。脳裏からその姿を消そうと努力すればする程、かえって気になるものです。




 むしろ必要なことは、その現実をふまえ自分自身の姿を別の角度から見つめ直すことでしょう。




 教会は、キリストが居られる聖なる場所です。同時に聖人の集まりではなく、罪人が、キリストのもとに集まってくるところなのです。




 「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である」(ルカ5:31 )とキリストも言われたように、罪のない聖人にはキリストの救いも、教会も要りません。罪に苦しむ人のために教会は存在しています。




 ですから、教会は罪人の集まりと考えてよいのです。病気で苦しんでいる人を受け付けない医者がいれば、それは問題です。罪人を寄せ付けない教会があるとすれば、それはもう問題外といえるでしょう。






◆自分の本当の姿は?




 薄汚れた布を真白な布と並べれば汚れは目立つものです。ですから、教会ではもっと幻滅する可能性があるでしょう。




 きっとあなたに必要なことは、幻滅を避けることではなく、むしろそれを徹底することです。他者に対してではなく、自分の本当の姿がキリストの前で明らかにされ、自らに幻滅することでしょう。




 わたしも、罪に汚れた自分に幻滅しました。しかし、そんな自分をさえも受け入れ、ゆるし、新しくし、忍耐を持ってその成長を喜んでくださる神の愛に感謝と驚きでいっぱいです。




 ここにクリスチャンのめぐみがあります。このめぐみによってのみ、成長途上にある方の背後にある神の愛と忍耐が見えてくるのです。




Q31、いろいろな教会に行きましたが始めは良くても結局は満たされず、自分に合う教会を探しながら転々としてしまいます。どうしたら良い教会を見つけることが出来るのでしょうか。(40代、女性)


A31


◆教会は皆不完全




 あなたが今直面している問題には、ふたつの側面があると思います。




 ひとつは、教会自身が持つ問題です。つまり、あなたが満たされない原因の一つは、教会に何らかの問題があるということが考えられます。




 確かに、ずっと同じ教会に通っている方の中にも、その教会で満たされないということもあるでしょう。




 現実には病気もせず、また欠点もない完璧な人間がいないように、問題のない教会はこの地上には存在しません。ですから、教会は祈りを必要としています。




 しかし教会が教会であるのは、問題が無いことによるのではなく、問題をも通して神のみ業が現されるところにあります。






◆誰が教会を選ぶのか?




 あなたの直面している問題のもうひとつの側面に移りましょう。それは、教会というよりもあなた自身に係わることです。




 私が心配なのは、苗木を転々と植えかえたら育つ木も育たなくなるように、あなたが教会を転々としているうちに、霊的命を失ってしまうことです。それは、サタンの願うところです。




 あなたが気付かなくてはならないことは、「自分に合い満たされる教会を探す」ということの中にある落とし穴です。それは選ぶ主体があなただからです。




 その場合、欠点が見えてきたり、問題にぶつかった時に立ち戻るところは、自分の選択です。「こんなことになるのを知っていたら、選ばなかった」と思い、選択し直すでしょう。




 しかし教会は自分で選ぶのではなく、むしろ主が既に選んだ教会に導かれるのです。問題にぶつかって立ち戻るところは、自分の選択ではなく、神ご自身の選択です。




 「こうなるのを知っていた上で選ばれたのだ」と受け取り、その問題と取り組む中で、成長していくのです。そこに真の満たしがあるのでしょう。




Q32、教会に行かなくても、自分で信仰をしっかりもっていればそれでよいのではないでしょうか。(40代 主婦)



A32


◆信じることは教会に行くこと?




 教会に行くことと信仰をもつこととはまったく同じことではありません。だからといって、まったく別々なことでもないでしょう。教会生活と信仰とはどのように係わるのでしょうか。




 教会はよく神の家族と言われます。「家族」は人が生まれ、育まれ、成長し、人間らしく生きられるように神が創造された神聖なものです。「教会」も同様に、神がキリストにあって創造された神聖なものです。




 救われクリスチャンになったということは、この神の家族と縁の無かった者が、キリストを信じることによって、その家族の養子として暖かく受け入れられたということです(ガラテヤ書 3:26〜4:7)。




 その意味では、信じることは神の家族の一員となることであって、教会に行くということはその自然な結果といえるでしょう。




 ところが、極端に信仰と教会とを同一視することは、危険なことです。信仰はすなわち「教会に行くこと」叉「奉仕すること」となってしまいます。そうなると、行いが全てになり、信仰や魂に関する根本的なことが欠落してしまうことにつながります。




 それは放蕩息子の兄と同様であるといえます。彼は父の家にいて、行いにおいてはそれなりのことをしていたにもかかわらず、心は父から離れていたのです(ルカ15:11〜32)。






◆信じることは教会と関係がない?




 「教会に行っている」ということだけで「信じている」ことにはならないでしょう。




 聖書には教会にいかなくては、救われないと書かれてはいません。救われるのはイエス・キリストを信じる信仰のみによるのです(エペソ2:8)。ですからあなたの考えは、ある意味では理がとおっていると思われます。




 確かに教会にいくという「行ない」は信仰そのものではありません。しかし、長期の病床生活、その地域に物理的に教会がないなどの特別な状況を除いては、信仰と教会生活を切り離すことは問題です。




 ちょうどそれは、結婚と結婚生活を切り離すようなもので、健全な状態とはいえません。




 ローソクは、一本だけでは心もとなくても、何本も集まれば、明るさを増します。たとえ自分の灯が消えかかってもまわりから火を分けてもらうことが出来ます。




 「私は自分の火だけでやって行ける」と思うことは、ある種の思い上がりといえるでしょう。また、教会生活ぬきで自らの信仰を育てるのは、土なしで植物を育てるようなもので、非常に難しいことです。




 実り豊かなクリスチャン生涯をおくるためには、どこかにしっかりと根をはる必要があるでしょう。






◆今あなたにとって大切なこと




 しかし、わたしが気がかりなことは、あなたが「信仰と教会生活」の問題を質問として挙げていること自体に秘められたあなたの霊的健康状態、また実際の教会生活にかかわるなんらかの問題です。




 あなたの質問そのものにしっかり取り組み、信仰と教会生活との関係を正しく知ることは大切です。しかし、それ以上に、質問や疑問はあなたという存在全体の氷山の一角です。




 あなたはその質問に秘められた問題、そして自分の信仰の状態に気付かされ、なんらかの行動をおこす必要があります。それは神様からの豊かなめぐみと力をいただくことにつながり、主がゆるされた成長の機会です。