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Q22、最近宗教にまつわる様々な社会的問題を耳にし、宗教というだけで、何か得体の知れない集団という異様なイメージが付きまといます。キリスト教は、それほどではないと思いますが、宗教のひとつと思うと、不可解な要素が多分に残るのですが . . . .(20代男性、学生)


A22

 宗教は他のどの動物にも見られず、人間にのみ見られます。どんな未開社会であろうと、またどんなに文明の発達した現代社会にあっても、民族や時代を越えてあらゆる人間社会に宗教は存在しています。




 その意味で、宗教は人間を真に人間たらしめる重要な要素であるということができるのです。






◆世俗化、それとも宗教ブーム?




 日本においても、近代化と世俗化にともなって、宗教を基盤としていた伝統的な生活形態に大きな異変が生じました。戦争を境にそれはいよいよ顕著に現われてきたといえます。




 戦争中日本においては天皇が神の位につき、宗教は国家と結びつきました。しかし戦後、天皇の人間宣言によって、それまでの天皇を頂点とする国家体制が宗教そのものへの信頼とともに崩れさったのです。




 宗教はいよいよ形骸化し、人々の心は経済的、物質的豊かさに向けられてきました。




 ところが、現実には経済の高度成長にともなって、宗教がすたれるどころか、いよいよ活力を増していきました。世俗化がますます進む一方で、新宗教、心の時代、新々宗教と目を見張るような宗教ブームとなったのは、記憶に新しいことです。




 戦後社会の脱宗教化現象は、同時に心の砂漠化でもあり、世俗化が宗教ブームの引き金になったとすらいえます。






◆何で心を満たすか




 現代人の危機は、心の砂漠化そして魂の空洞化です。さらに、大きな危機は何をもってその空洞を満たすか知らず、魂が彷徨っていることです。




 どんなに文明が進み、生活が豊かになっても宗教がなくならない事実は、人類が共通してもつ魂の空洞という問題の根の深さを物語っています。同時に、この魂の問題に宗教がいかに密接な関係を持ってきたかをも示しています。




 空腹ならレストラン、病気の治療には病院、知識や知恵が必要なら学校や塾、日用品が必要ならスーパー等々、これらはみな大切なものです。




 では、魂の問題ならどこへ行ったら良いのでしょう。宗教でしょうか。






◆宗教の重要性とその限界




 確かに宗教は、何のために生きるのか、本当の幸せは何なのか、人はどこから来てどこへ行こうとしているのか、死んだらどうなるのか等、人生、真理、そして魂や永遠に係わる問題に対して真っ向から取り組んできました。




 実際、悟りを求めて努力や修行をする中で神秘的体験に入り、しかも時には常識を超えるようなこともあるかもしれません。




 しかし宗教はどこまでも、人間の側からの営みです。そこには限界があり、欠点もあります。「人間は最も崇高な存在であるにもかかわらず、動物のなかで最も醜いものになり得る存在だ」とよくいわれますが、宗教も人間の営みである故、崇高なものにもなり、逆に醜いものにもなり得ましょう。




 魂の真の満しは、人間の側からどんな崇高な宗教をもって追い求めても、空しく終わるでしょう。私たちを造られた創造者なる神ご自身の側からの働きかけによってのみ、真の満たしはあります。




 もともとこのお方によって私たちは生を受けたのですから、まず神の前に謙虚になることが、真に人間であることの原点です。そこにおいてはじめて宗教性(魂)、社会性、精神性のすべてが健全なかたちで満たされ豊かにされるのです。


Q23、私は、聖書がそれなりに、多くの人々に良い感化を与えてきた人類の宝であることは認めます。聖書を参考にする程度ならいいのですが、それを信じたり、その信仰によって一つの宗教に入るということには、不安と同時に警戒心をいだきます。(20代男性、学生)


A23

宗教に対する期待感と不安(警戒)感は、あなたばかりではなく、多くの日本人が漠然と持っているようです。




 ここで私が気になることは、「聖書」と「宗教」へのあなたの気持ちが異なることです。今あなたから「聖書には、引き付けられるが、宗教はどこか危険なので、一定の距離を保ちたい」、という声が聞こえて来るような気がします。






◆宗教は危険?それとも安全?




 オウム真理教に係わる凶悪な事件以来、宗教に対する警戒心が、多くの日本人のあいだでひろがっていることを、様々な方々と接している中で感じざるを得ません。




 そういった中で、極端で不健全な警戒感があることを中川師はこのように語っておられました。一つの宗教を見て、「宗教は恐ろしいから、これからは一切近づかない」と言うことは、あるものを食べて食あたりをした方が「食物というものは恐ろしいから、これから一切食物を口にしない」と言うことと良く似ている、と。




 食事が肉体に欠かすことが出来ないように、宗教も魂を持つ人間にとって不可欠です。




 ですから、宗教に対して、「どれも皆いっしょだから皆危険」という軽率な判断による、否定的な態度も、「別に何でもいい」という安易な態度も問題です。大切だからこそ、慎重な態度が求められるのだと思います。






◆混迷する現代人の宗教意識と聖書




 教育的高水準をどこかで自負する現代の日本人は、自分と他者の常識的判断が重なる部分で、物事を捉える傾向があります。




 しかし現実は、情報過多と判断基準の欠如で、価値の混乱期を迎えています。現代における日本人の宗教意識ほど、この混乱を如実に物語るものは無いでしょう。




 「宗教は得体の知れないもの」また「どの宗教が本物なのか」という表現に示されているように、宗教とはいったい何なのかという指標を持ち合わせていないのです。まやかしのご利益宗教、偽の宗教の表面化に伴って、いよいよ人々の宗教観は混迷の度を深めています。




・・・・・




 さて、宗教は本来、真剣に人間の本質的な魂の課題に係わるものです。




 私たちは普段は気付かないでいたとしても、魂の深いところで、得体の知れない不安感、魂の空虚感をもち、また「何のために生きるのか」という根源的な問を持っています。いざとなると私たちを虜にする、この魂の問題に、宗教は取り組むべきものです。




 ところが、どんなに宗教の重要性を強調したとしても、それはあくまでも人間の側からの取り組みです。それであるがゆえに、魂の求めに対して限界があります。




 しかし、聖書はこの魂の問題に対する神からのメッセージの書なのです。人間の側からではなく神の側からであることに決定的な違いがあります。だからこそ永遠にベストセラーなのです。




 「参考にする」程度ならいいと言っておられますが、ぜひ本気で参考にしてください。そのなかできっと神はあなたに聖書の言を通して何かを語られます。




 まず聖書に「聴く」ことです。最も残念なことは、聴きもしないで、信じる、信じないと、議論することです。それは、いただいたCDを聴きもしないでいいとか悪いとか議論しているのと似ています。




 ベストセラーに聴かずして人生を終えて欲しくないのです。



Q24、教会ではよく人を罪人扱いし、あれも罪これも罪と堅苦しいことを言い、私など肩身が狭いです。この教会では、罪をどのように教えているのでしょうか。(30代、男性)


A24

◆酒タバコは罪か




 ある教派では、酒タバコは罪で、他の教派ではあまりとやかく言わない、という印象を持たれる方は少なくないでしょう。




 私たちはどこまでは罪でどこから罪ではないかと、線を引いて自分はあの人よりましだとか、この線がクリア出来ないから、私はいつまでたってもだめだと思いがちです。ですから、どこに線が引かれるかは気になるものです。




 何が罪で何が罪でないかの正しい線は大切です。しかし、その基準で罪の行為は判定出来ても、罪の本質を示すことは困難です。




 この教会では、聖書のメッセージを土台としています。ですから、聖書がどのように教えているかが、あなたへの答えといえます。




 聖書は、アダム以来、全ての人が罪のもとに生まれ、罪のない人などいないと伝えています(エペソ2:3、ローマ3:23、5:12)。即ち、罪を犯すから罪人なのではなく、むしろ罪人だから罪を犯すのです。




 罪は行為の問題以上に、存在そのものの問題です。たとえ行為を矯正してもその人の根本が造り変えられなければ、思いや態度など隠れたところで罪が再燃するでしょう。




 渋柿は実の問題である以上に木の問題なのです。






◆罪の本当の恐ろしさ




 「すべて罪を犯す者は罪の奴隷である」(ヨハネ8:34)




 罪を犯すことでその罪(闇の力)が私たちを隷属し、私たちは自由を失うのです。奴隷は主人の命令に従う以外に道はありません。反抗すればする程惨めな結果になります。




 柿の喩えで言えば、渋柿はその木の指示どうりの実をつけた結果なのです。人間は神か罪(サタン)かどちらにつながっているかで決まると聖書は伝えています。




「いや、私は自分自身の力で生きている」と言うことは思い上がりであって、罪の元にいる証拠です。




 しかしどんな罪人でもキリストに接ぎ木されれば、まったく新しい実を結ぶことが出来るのです。