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Q16、私は最近、このまま仕事をしても、何にもならない、と思う様になり、また結婚も考えることが多くなりました。でも、あせりばかりが先行してしまいます。どうしたら神様のみこころが分かるのでしょうか。(20代OL)


A16

「コマ」のように働く現代人




 はたから見ればこの就職難にあって人も羨む立場にあったとしても、人にはなかなか言えない心のあせりや空しさ、また漠然とした不安感にさいなまれることがあります。




 しかし、そんな心の状態を無視するかのように、現代社会の日々の忙しさは、私たちを容赦なく追い回し、気がついた時には自分自身を見失ってしまうことも少なくありません。




 現代人は表面上はしっかりと立っているかのように見えても、それはちょうどコマが回転してはじめて立っているのと同じです。




 仕事の忙しさに追われてグルグル回っている時はしっかりと自分の足で立っているかのように見えます。ところが、いったんストップして自分の人生や、自らの本当の姿を見つめると、たちどころにフラフラになって倒れてしてしまうのです。




 私たちは、コマのように忙しく回っていなければ立っていられない悲しい存在なのかもしれません。






◆クリスチャンになったとしても




 クリスチャンになったからといって、そういった問題から自動的に回避できるわけではありません。むしろ、そのような社会の荒波の中で生きる力と知恵を信仰を通して与えられるのです。




 ですから、倒れることを恐れないで、いったん忙しさの渦から出て、静かに神の前に出るときを持つことです。




 修養会や聖会に参加したり、時間を取って祈りの期間を持ったり、信頼できる友や先輩、叉は牧師と真剣に相談し祈ること。そのほか考えられ実現可能な事を計画し実行することです。




 「主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。人の歩みは主によって定められる」(詩篇 37:7、23)。




 さらに聖書に、「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道はあなたがたの道とは異なっている」(イザヤ55:8)とあるように、しばしば私たちには主のご計画や導きが見えないことがあります。同時に求めて来る者には、自らをお示しになるお方です。




 ではどのようにしてみこころを求めたらよいのでしょう。






◆みこころを知る秘訣




 私が聖書学院でこの問題に取りくまざるをえなかった時、ある宣教師を通してみ旨を知る3つの秘訣を学びました。それはこのようなことです。




 船が港に入るとき自分の船のポール、港の目印、そして遠くの灯台などの目印が一直線に並ぶように船を操縦するそうです。




 大事なことは3つのポイントが一直線に並ぶことなのだそうですが、みこころを知るためには、次の3つの点が大切だというのです。




 まず、真剣に祈ること。祈りの中で、主の導きをうけとると、そのことに心配や恐れがあったとしても、深いところで平安があります。




 次は、みことばに聞くことです。祈りの中で示された導きは常にみことばに照らし合わされる必要があります。




 最後に、神の選ばれた器(クリスチャンの友人、先輩、牧師等)に相談すること。




 この3つが一直線に並んだなら、それが最もみこころに近いということです。




 仕事を続けるのか、結婚するのか、するとしても、どなたが主の導きの人か、結婚したら仕事は、、、大切な事ほど簡単に答えはでません。




 自分がみこころをつきとめるのではなく、むしろ真剣に求めていく中で、主が思いがけないところから御旨を示してくださるということを忘れてはいけないでしょう。



Q17、聖書には、妻は夫に従うこと、女性は、つつましくしていなければならない、といった内容が書かれていますが、封建的で男性優位といった印象を強く受けます。男女平等を掲げる現代に生きる者としては、この教えを素直に受け入れるのが困難なのですが。(20代女性、学生)


A17


 あなたがおっしゃるように、男女の関係において、聖書に書かれてあることと、現代の若い世代の考え方との間には、かなりのギャップがあります。




 ですから、聖書の教えをそのままでは、受け入れられないというのは、むしろ、あなたの自然で、素直な気持ちとして、受け止めることができます。






◆聖書の中での女性




 聖書の時代の女性は、現代の女性とかなり違います。今の基準でそのまま見ると、まさに男尊女卑ということばが当てはまるような、上下関係がありました。




 有名な五千人給食の奇蹟も、その五千という数の中に、女性と子供は含まれていません。しかし、そのような文化に実際に生きていた人々は、今の私たちが考えるほど男女の不平等を意識していたかは、疑問の余地が残ります。




 どちらにしても、こういった文化の中で書かれたことをふまえて聖書を読むと、あなたの感じておられることとは違った側面が浮かび上がってきます。




 多くの箇所で、妻は夫に服従するように、教えています。さらに、当時の女性の役割や立場を支持するような、ところも数多くあります。




 しかし同時に、キリストの女性への態度や、聖書の女性への基本的姿勢を、聖書が書かれた当時の男尊女卑ともいえる文化的状況を考えて見ると、驚くほど男女の平等を支持しています。しかも、それは革命的とすら言われる程のものと言われています。




 ではいったい、聖書における男女の平等とは、何をいうことなのでしょうか。






◆男女の違いと平等




 平等と一口に言っても、その意味合いは、視点によって大きく違ってきます。




 聖書には、創造者なる神が、人を、男と女とに分けてお造りになった、とあります。そこには、はっきりとした違いがあります。




 問題なのは、その違いを、画一的な物差しではかり、一方が他方より優れている、と価値判断を下すことです。これは、人間を人格的な存在としてではなく、物として扱うことになります。




 現代社会の一つの大きな問題はこの、誤った価値判断に基づく差別です。




 逆に、男性と女性の違いを強調することを、差別とみなして、男女の同一化や、その違いをなくしていくことによって、不平等を解決しようとすることも考えられます。しかし、これも聖書の見方とは異なります。




 違いがあるにもかかわらず、神の前には平等なのです(ガラテヤ3:28)。違うからこそ意味のある平等なのです。






◆家庭の秩序と男女平等




 不平等を感じるもう一つの要素は、夫と妻の家庭(又は、教会などの集団生活)における秩序の問題にあります。




 ある者は上に立って、指導力を発揮し、他の者は、下でそれを支え、助ける。秩序は、これが円滑にゆく為にあります。




 上にあるということで、下より価値があると言うのは、鼻の方が口より価値があるというのと似ています。偉いから上にあるのではないのです。




 確かに聖書は、妻は夫に仕えるべきであると教えていますが、夫はキリストが教会を愛したように妻を愛しなさい、とあります。キリストが自らを僕として仕えられたことを考えると、秩序は大切ではあっても、結局は仕え合うことにおいて平等なのです。



Q18、一ケ月後に結婚することになっているのですが、急にこのまま結婚しても大丈夫なのかなと不安になります。何かアドバイスをください。(20代女性、婚約中)


A18

何か新しいことが始まる前に何の不安も心配もないとしたら、私には不思議なことです。その新しいことが人生にとって大切なことであるにも係わらず、何の不安も感じないとしたら、逆に問題でしょう。






◆「結婚」という旅立ちの前に




 結婚は、天地を創造された神が最初にお造りになった人間関係です。




 聖書は明らかに親子よりも、男と女とで構成される結婚の関係を全面に出して人類の創造を伝えています。




 旧約聖書の創世記第一章をみると、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(1:27)とあります。この「男と女」をお造りになられた様子が第二章で手に取るように描かれています。




 神は人を土のちりでお造りになってから、エデンの園におかれました。




 ある時「人が一人でいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」(創世記2:18)と主なる神が言われました。




 神のために独身で生きるように導かれる方もあります(マタイ19:12)。




 しかしあなたが結婚に導かれているのであれば、相手がどういう人であるかを問う以前に、まず「人が一人でいるのは良くない」という現実を謙虚に受けとめることが大切です。




 弱さや欠けをも含む深い人間理解、さらにその自己認識は、実りある豊かな結婚生活への第一歩なのです。






◆「出会い」の秘密




 「人生は出会いによって決まる」とよく耳にいたします。




 自分が誰と出会うかという以前に、自分の父と母の出会いのゆえに今の自分があるのですから、「出会い」は自己の存在の原点にも係わることです。




 さて人間の存在と同様、結婚も「出会い」なしには始まりません。出会いをどのように受けとめるかで結婚は決まると言っても、言い過ぎではないでしょう。




 出会いをどのように受けとめるかで、結婚は大きく左右されます。




 創世記2:18〜24を読んでみると、神はすぐに出会いを提供することはしませんでした。むしろ、様々な動物をアダムのもとに連れてきたと書かれてあります。彼は動物にそれぞれ名をつけましたが、当然のごとく「ふさわしい助け手」との出会いはありませんでした。




 彼は疲れたのでしょう、深い眠りについたのです。そして、神はアダムのあばら骨から一人の女、エバをお造りになり二人の出会いとなったのです。




 結婚の出会いは、人間の側の努力や営みを越えたところ、すなわち、神の導きのもとで起きるのです。






◆結婚にみる天国と地獄




 創世記を読み進むと、数章後にノアの洪水の出来事が記されております。そこに「神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった」(6:2)とあり、出会いの中に神の導きを祈り、認め、受けとめるということがないがしろにされたことが、悲劇的な結末への序曲となっています。




 宗教改革者のルターは、このように言ったそうです。




 「天国を見たかったら良い家庭に行ってみなさい。そこが天国に一番近いのです。地獄を見たかったら、愛し合っていない夫婦を見てごらんなさい。そこが地獄に一番近いのです。」




 天国と地獄の分岐点は、二人の出会いがその背後にある神の導きの中にあるか否かにあると言っても過言ではありません。




 あなたが、なにか不安を感じるということ自体が、確認しなくてはならないことが残っていることのしるしでしょう。




 お互いの性格、過去、生き方、趣味、夢、めざす方向、家の事情、正直な気持ち、等など、心配しだしたら、切りがないほどあるかも知れません。




 しかし最も心配しなくてはならないことが何であるかを見極めることが大切です。それは、この出合いの背後に、神の導きを確信しているかどうかです。