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Q5、私は今のところ宗教は必要ないと思っています。 ひとつの宗教に入ることは、違和感と同時にどこか時代錯誤の様な気さえします。(30代男性、会社員)


A5

◆近代化と心の砂漠化




 近代化が進むにつれて、人生の様々な必要にこたえるのは、文明がもたらした、科学技術、医療施設、経済システム、教育機関、等がかつての宗教にとってかわると考えられてきました。しかし、近代化がこれほど進んでいるのに、宗教ブームが現代の先進国に見られ、宗教心やその活動が科学の発展とともにむしろ盛んになっているのです。




 この現象は、近代文明が発展し、便利で物質的に豊かになったことで、かえって失ったものが多くあることを物語っています。




 ところで、ビル・ブライトという有名な伝道者は、かつて青年の頃、実業家として成功したいと思い、既に成功して、ビバリーヒルズの立派な邸宅に住む人に尋ねました。「どうしたら、成功できますか」と。




 その実業家はこのように答えたそうです。「それは、たった一つ。イエス・キリストを信じ従うことです。このビバリーヒルズには成功して豊かになった人々が住んでいると思うかも知れないが、友人として一歩その人生に足を踏み入れると、皆悲惨で空しい生涯をおくっています ・・・・」。




 人は獲得し、握っているものによって逆に振り回され、支配されるでしょう。物質的豊かさや、この地上の一時的な成功などで心を奪われるということは、それと運命を共にすることを意味しています。豪邸は時とともに古び、名声も時代とともに忘れられていきます。




 どんなに金持ちとなり、有名になっても、空しさが残るという事実は、逆にこれら地上のもので満たされるほど人間の心は小さなものではないことを暗示しています。ビバリーヒルズの住人は、こころのどこかで、そのことを誰よりも強く感じてるのかもしれません。






◆現代社会が失ったもの




 はたして、科学文明は悪いものなのでしょうか。




 確かに、物質的に豊かになったこととひきかえに、人の心は砂漠のようにすさんでしまい、文明の進歩は、さらにそこに拍車をかけてきたといえるでしょう。しかし、近代文明そのものが問題なのではなく、文明のもたらした物質的豊かさに、人の心が奪われ、そして真の自由までもが奪われてしまったことが実は大きな問題なのです。




 では、なぜ心が奪われてしまったのでしょう。そして、そのことで何を私たちは失ってしまったのでしょう。




 荒廃した現代社会にあって、その失ったものを探し出し、真の豊かさを取り戻すことは、人間の生の最も深いところにある「魂」または「宗教」の次元にまで掘り下げることなしには不可能と言えるでしょう。それは、時代錯誤などではなく、混迷する現代社会に生きる私たちが逃れることの出来ない、また逃れてはならない最も重要な課題なのです。


Q6、今の自分に満足出来ないから、乗り越えられない問題があるからという理由で、神や宗教に解決を求めるのは、弱い人々のすることであって、それは、自分の人生にたいする逃げの態度ではないでしょうか。(20代男性、サービス業 )


A6

◆神に頼るのは、逃げ?




 毎日のめまぐるしい日常生活の中では、本当の自分の姿と出合うことなどなかなか出来るものではありません。




 しかしどんな人生でも、形は違っても自分の力のみではどうすることも出来ない様々な思いがけない事故や災難、さらには様々な失敗、裏切り、人間関係のもつれ、病気、死、等にでくわします。しかもそれは、自分の計画、意思、感情など一切を超えて、まったく一方的に向こうからやってくる、というほうが、事実に近いと思えることもしばしばです。




 そういった困難のなかで私たちは、人はなぜ苦しむのか、なぜ私なのか、何のために生まれ、生きるのか、死んだらどうなるのか、など人間存在の根本に関わる問題に直面します。




 「真理」という光なしには本当の意味で生きることの出来ない動物、それが人間なのでしょう。宗教はまさに其の次元の真剣な取組の中で生まれてきたものなのです。




 さて、宗教や神に頼るのは弱い者のすることとよく思われるようですが、私はそのとおりだと思います。しかし、それは事実の半分であるように思われます。




 もう少し正確に言うならば、神に頼ることは、自らの弱さや限界を認めることからはじまる、ということです。自分の弱さを認めることは、逃げの態度というより、現実の自分の姿と直面するという勇気のある態度です。






◆最も美高貴で最も醜い動物




 では、実際人間は、どこまで強く、またどこまで弱い存在なのでしょうか。




 自信過剰な人は、自分の強さに惚れ込み、自分の弱さや欠点が見えていません。逆に劣等感にさいなまれる人は自分の欠点に囚われ、自分の長所がよく見えていません。




 自分で自分をどのように見ているかを自己認識すること(セルフ・イメージ)は大切なことです。しかし、それ以上に大切なのは、聖書という鏡が人間をどのように写し出しているかにあります。




 聖書によると、人間は私たちが想像する以上に能力と可能性に満ちたすばらしい存在であると伝えています(詩篇8:5)。しかし、神から離れた人間は想像以上に弱く醜い存在であるとも伝えています(ローマ1:21)。




 人間は神の創造の最高傑作でありつつも、これ程創造の秩序を破壊し堕落した動物もない、というのも事実です。




 キリストは、この人間の両極性をブドウの木と枝の喩えで教えられました (ヨハネ15:5)。もし一つの枝が木につながっていれば、その枝はただの棒と違って実をつけ、しかもその中の種には、命の無限の可能性が秘められています。しかし枝だけでは腐っていくのみで、実りは不可能であるばかりか、その枝は結局腐っていくのみです。




 枝と同様に私たちにはものすごい能力が与えられていますが、それを発揮できるのは、命の根源者である神と信仰で結ばれることで初めて可能なのであり、自分の力だけでは必ずや決定的な限界にぶつかるのみならず、結局堕落と滅びに向かうのです。




 神を信じる (つながる) ことは、枝としての自らの弱さと限界を勇気をもって謙虚に認めることです。しかし、信仰は人生からの逃避なのではなく、むしろ神との関係をもつことによって、自分に与えられているその計り知れない可能性を最大限に発揮する原動力なのです。



Q7、歴史をみると、宗教的確信が戦争を解決に導く、というよりむしろ戦争の火種になってます。だから、宗教とかキリスト教という言葉にある種の抵抗を感じます。 (20代男性、学生)


A7

◆醜い宗教戦争




 戦争は、宗教のみならず、政治、経済、文化、民族意識、歴史、感情等を含む人間社会の問題として総合的に捕える必要があるでしょう。しかし現実に、キリスト教の名のもとに、多くの戦争が起きたのは、非常に残念な事であり、神が忌み嫌うことです。




 一般に宗教が決定的原因とは言いきれないとしても、それが複雑に絡んでいることは否めません。




 しばしば、政治的指導者は、その野心や計画を正当(神聖)化し、民衆の心をそこに結集するために、宗教の潜在的力を利用することがあります。このゆえに、あなたが宗教とかキリスト教という言葉に抵抗を持たれる、ということは、ある意味でごく自然なことです。






◆うつろな宗教のイメージ




 しかし、もしあなたがキリスト教の別の側面、すなわちその人類への貢献という観点で歴史を見たのなら、キリスト教に対して異なったイメージを持たれるでしょう。




 ここで大切なのは、「キリストの福音」と「キリスト教という宗教」が同一のものではない、ということです。




 この違いは水と器に例えられます。もし「キリスト教」という器に「福音」という命の水が入っていなければ、人や社会がつくりかえられ新しくされることはありません。




 荘厳なキリスト教建造物、立派な教理や神学、整った教会や教団の組織などは、大切な器でしょう。しかし、その中心にキリストの福音が満ちていなければ、単にそれは歴史的な文化遺産としての価値で終わってしまうことでしょう。




 あなたの持つキリスト教へのイメージは、この、外側の器にかんするものではないでしょうか。もちろん器は大切です。しかし、それは、水を失ったことの故にキリストが憎まれ、悲しまれることのために利用されてきたことも事実です。




 あなた自身を造りかえ、生かし豊かにする事の出きるのは、キリスト教という器なのではなく、キリスト御自身です。