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Q1、毎日追われるような日々を過ごして、気がついた時は半年や一年があっというまに過ぎてしまい、何か空しい気持ちに襲われます。「人生には目的がある」と聞いても、わたしには空しく響くのみです。(30代会社員)


A1

 マンネリ化した日常生活から、また社会という複雑で大きな歯車の一部からなかなか抜け出せず、気がついた時はかつては想像もしていなかった年齢に達してしまっている自分にショックをうける。こんな経験はないでしょうか。これが悲しい私たちの現実のようです。




◆流れゆく「時」




 ある人が自由に使える自分の時間を次のように計算しました。




 人生を70年として最も費やす時間の長いのは睡眠で約23年4ケ月分。次は働いている時間で約8年5ケ月、そして食べている時間約3年、学校で2年2ケ月、通勤通学に1年半、用をたすのに1年費やし残るのは約31年。物心のつかない乳幼児期と体が自由にならない病気や老後を差し引くと、20年にも満たないというのです。




 やっと確保できた自分の時間さえテレビの前でボーとしているうちにどんどん消えていき、また酒にも呑まれてしまい、結局気がついた時には何も残っていない。これが現実だとしたら、何という悲しい人生でしょう。




 しかもいったん過ぎてしまった時間はもう帰ってこないのですから、後悔している時間すら無駄と思えるほどです。




 人生は決して開くことのないドアの鍵穴から一本の糸を引っ張るようなものだ、とも聞いたことがあります。糸の長さは、人によってまちまちですが、いつ糸の切れ目がくるのか分からないというのです。






◆聖書という不思議な書物




 「鍵穴の糸」をもちいた人生の描写は、死という時までの限られた時間の中だけでしか生きられない人間の限界をものがたっています。しかも、あとどのくらい「時」が残っているのかも知らず、時間の流れに逆らうことの出来ない人間の悲しい運命をあらわしています。




 しかし、これが人生の全てなのでしょうか。人生に目的や望みというものはないのでしょうか。




 さて、ここで一冊の本を紹介したいと思います。この本は人類始まって今まで、最も多くの言語に翻訳され(約二千もの言語に約されている)、古典の一つとされながら、現在でもベストセラーを続ける本です。




 それは、言うまでもなく時代を越え、また民族や文化を越えて、計り知れないほどの多くの人に真の希望を与え続けてきた聖書です。では、この聖書はあなたの問いにどのように答えているでしょうか。まずあなたの気持ちに最も近いところから見ていくことにしましょう。






◆虚無という名の空洞




 「空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が労するすべての苦労は、その身になんの益があるか」(伝道の書1・2〜3)。




 これは、あの栄華を極めたソロモンの言葉です。彼はさらに続けます。




「金銭を好むものは、金銭をもって満足しない。富を好む物は富をもって満足しない」(伝道の書6・10)。




 「たとい彼は千年に倍するほど生きても幸福を見ない。みな一つ所に行くのではないか」(伝道の書6・6 )。




 ソロモンは、快楽、酒、事業の成功、財産、知恵や知識を現実に手にいれたにもかかわらず、その心の空しさ、空洞は埋められなかったことをこの伝道の書で告白してます。それは人間の魂がこの地上の物などで埋まるほど粗末なものではないことを示しています。




 しかし伝道の書は虚無で終わってはいません。空しさの果てで私たちが聞かなければならないメッセージがあるのです。




 「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」(伝道の書12・1)。




 「事の帰する所はすべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」(伝道の書12・13)。




 虚無という名の空洞のたった一つの解決の道は、創造者なる神に立ち返ることであると聖書は伝えています。神のみが魂を満たすことがお出来になるおかたです。




 もしこの世の富や快楽等がそれを満たすことが出来たのなら、先進国は幸せな人で満ちていたことでしょう。しかし、現実を直視するなら、聖書のメッセージに帰らざるを得ません。

Q2、最近自分の能力の限界を感じざるをえない事に出くわし、将来の夢と現実の自分とのギャップに不安とあせりを感じています。どうしたら確信をもって生きてゆくことが出来るでしょうか。(20代男性、学生)


A2

◆夢と現実




 人生に夢を持つことはすばらしいことです。ある人はどこまでも夢を追い続け、自分の能力を磨いて夢を実現するかもしれません。




 どんなに能力があっても、お金やコネがなく夢を実現できない方もおられます。逆にある人は現実を早くから見極め、安全な道を選ぶでしょう。




 そういった生き方を「夢を失った色あせた人生」と見る人もいれば、「かないもしない夢に裏切られるより、地道に生きるほうが幸せに近い」と言う人もいるでしょう。「人生は夢と現実の妥協の産物」と見る人すらいます。まさに十人十色といえるでしょう。




 問題なのはどの考え方が良くてどれが悪いかではなく、むしろ、自分の将来の課題にあなたがどれだけ真剣に取り組んでいるかなのです。




 ある出来事によって、自分の現実に直面するなかでいろいろな考えや思いが交錯し、ついには自分を見失ってしまう事すらあります。あせりつつ様々なことをしてみてもどこか空回りし、「取り組む」というよりむしろ問題に振り回されていると言えるでしょう。コマが回っていないと立っていられないように、なにかをしていないと不安になり、静まることが出来なくなってしまうのです。






◆生の原点、夢の原点




 今あなたに必要な事は、まずいったん全てをストップし、時間をとって静まることです。さらに、「自分が人生を握っているのだ」という思いに潜む高ぶりに気付く事です。自分で自分の命をつくり、人生を自分でスタートした方は、一人もいません。




「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩篇46:10)




 生きているのではなく、生かされているのです。能力も、人生も、夢も、与えられるものなのです。神のもとで始めて、それらは思いもよらない創造力を持つのです。


Q3、目標を立てて努力しても思うように達成出来ず、また最近いろいろな失敗が重なり自信喪失状態です。「俺の人生なんてこんなもんさ」と、どこか冷めてしまっている自分に危惧すら感じます。どうしたら、自信と希望を回復することが出来るでしょうか。(20代男性、会社員)


A3

 人生には思うように行かないことが多々ありますが、そのような時にそれをどう乗り越えていくかで、その後の歩みは大きく違ってきます。今あなたはその重大な分岐点に立っているのです。




◆本当の自分と出会う




 こんな話を聞きました。鷲の卵が間違って雷鳥の卵にまじって孵化され、その鷲は回りの雷鳥と共に成長しました。自分は雷鳥だと思い込んでいるのですが、もともと地面を這いずり回るように造られていないので何をするにも雷鳥の様にうまくいきません。




 そんなある日、大空をゆうゆうと飛ぶ鷲を見て、「あんなふうに僕も飛べたらなあ」と言うと、回りの兄弟たちから、「歩くのも下手なのに飛ぶなんてとんでもない。そんな事考えるのも、上を見るのもやめなさい」と言われ、すっかり落ち込んでしまったということです。




 あなたはこの鷲と自分と重なりますか。もしあなたが「いや、もし僕が鷲ならまだ希望がありますよ」と言うなら、大切なことの半分を掴んだことになります。




 つまり、この希望は条件付きであるということです。しかし、後の半分をお伝えする必要を感じます。それは、一体何が希望を持てる条件かということです。




 この鷲も、「もし僕が鷲なら希望があるのに」と、あなたと同じことを言ったことでしょう。この話のポイントは、自分がなんであるかを知らないとどうなるかにあります。希望の条件はそれを知ることでした。




 この鷲は自分の限られた経験と回りとの比較において自己評価を下しています。しかし、経験と比較によっては、元々どの様に造られているか、ということを知るのに十分ではありませんでした。もしあなたが経験と比較において自己評価をしているのなら、この鷲と同じです。




 本来の自分を発見する為には、それを知っている方の元に戻ることです。その方は創造者なる神です。神は聖書を通してそれまで知り得なかったあなたの本来の姿を示し、新たな希望を与えて下さいます。






◆成長の秘訣




 失敗のない人生はないでしょう。「俺の人生なんてこんなものさ」と言いたくなるそんな時こそ自分をもう一度見つめ直す時です。問題は、失敗をしたかどうか、ということよりも、失敗からどれだけ謙虚に学んだかにあります。成長は、成功の積み重ねというよりむしろ、いかに失敗から学んだかによるからです。




 入船尊氏は『百万人の福音』のコラムの中でこのように言っておられます。「成長しない人とは、自分に欠けているものを見つめる正直さが足りないか、あるにはあっても正確さが足りない人でしょう」。




 最も見えにくい自分の本当の姿を正確に見るのに何よりも用いられて来たのは聖書という鏡でした。この鏡は私たちの失敗そのものの奥に潜む問題の真相とその根源を示し、さらに私たち一人一人がいかに尊く価値があり、素晴しい存在であるか示して下さるのです。




 だからこそ聖書がベスト・セラーであり続けているのでしょう。




 想像してみてください。もしあなたが、オリンピックの百メートル走で世界新記録を出したら、あなたの存在は日本の栄光です。しかしあなたはそれ以上の存在です。




 小さな日本の栄光をあらわすどころか全宇宙をも造られた限りなく偉大な神の栄光をあらわす存在です(第一コリント6:20)。神の目にはあなたは人間の想像を遥かに超えた価値があり、可能性に満ちた存在です(イザヤ43:4)。




 こんなにも素晴しいからこそ、罪によって本来の姿を失い(ローマ3:23)、その価値を見失ってしまうその悲劇は深刻なのです。そんな私達のためにキリストは神の栄光を捨てて罪の身代わりとなられたのです。



Q4、子供のいじめの問題、夫の事故、自分の健康問題と最近私の人生に様々な思いがけない出来事がふりかかり、不安と生活の疲れとに自分を見失いそうです。神様を信じているのに「なぜ」と思ってしまいます。不信仰なのでしょうか。(30代主婦)



A4


◆思うようにいかない中で




 どんなに信仰深くあっても、人生が自分の思うようにいかないのは、逃げられない現実です。




 その中でしばしば私たちが持つ大きな問は、「なぜこの私が」ではないでしょうか。聖書にも、苦しみの中にいる人の前で弟子が「先生、この人が生まれつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですかそれともその両親ですか」(ヨハネ9:2)と言ったのです。




 未来を知ることのほとんど許されていない私たちは、結局苦難の原因を過去に求めてしまいます。そして、多くの場合、何の解決にもならない様々な因果律をあてはめ、「なぜ」に答えようとするのです。






◆「なぜ」から「何のため」へ




 現在直面する困難に加え、更に未来への希望を失うと、目が過去に向かってしまいやすい私たちです。




 ところが、キリストはこう言われました。「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親でもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」(ヨハネ9:3)。




 『こころの光を求めて』(工藤信夫著、113〜4頁)にあったの女性の証です。「私の人生は、悲しみと苦しみ、そして混乱とに満ち、何の目的も美しさもないペルシャじゅうたんの裏のようなものでした。しかし、人生の終りにそれをひっくり返してみると、主のみごとな絵が私の人生に描かれていました。」




 今あなたに必要なのは、きっと前に進むことでも過去にこころを向けることでもなく、静まって上に、即ち神ご自身に目をむけることでしょう。




 「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」(ローマ8:28)。




 今は見えなくても、やがて、主の描いて下さっている絵を見る日の来ることを、あなたは知っていますか。